こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

NO GAME,NO KOJIMA

こんにちは。こじまです。

 

先日、大学院の授業のレジュメを切る最中に、わかりにくいことは身近なものに置き換えて考えるとなんでもわかりやすいし、説明もしやすいという持論に則って頭のなかで検索していたら『あかやあかしやあやかしの』というゲームを思い出していました。

 

その日以降、頭の中で連想ゲームを繰り広げた結果

「有名どころRPGで考える・考えさせられることって大きく3つくらいに分けられるのでは…!?」とこじまは行き着いたのです。(寝ても覚めてもオタクな自分を実感します)

 

ここでの有名どころRPGは10年以上コンテンツが稼働していて、いくつかシリーズとして作品がでているドラゴンクエスト(以下:ドラクエ)ファイナルファンタジー(以下:FF)テイルズオブ(以下:テイルズ)キングダムハーツ(以下:KGH)は想定しています。

何を有名どころRPGとするかの議論のとき個人差がでるもので、あくまでもこじまがプレイしてきたなかでの中での話ですので。うむ、異論は認める。(いやでも、スクエアエニクス系列に偏り激しすぎでは。それだけスクエニRPG作品に強いということなんかな…)

 

今回設定した有名どころRPGは大まかには

①自己研鑽・自己対話

◀︎レベリング・スキルの習得など

 

②自己と他者・社会との関係性

◀︎チームパーティの加入・離脱とその背景など

 

③救うべき"世界"や守るべき"理"とは何か

◀︎"世界"を救うというゲーム内の目標

 

といった3つの要素が含まれていると考えます。

 

 さらに先に挙げたそれぞれの作品は①~③のどこかが特に色濃くストーリーのなかでの基軸になっています。そのように作品を分けてみると…ババン!

 

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こんな感じかなと…!The 独断と偏見の塊!笑

ちなみにポケモンシリーズもRPGに分類することができる気がするけど、ストーリー性はほかのシリーズに比べて薄いので、あえて外していました。

その一方で、ポケモンシリーズはゲームをプレイする側が何を物語の主軸に置くかが流動的だなと思い括弧付きで図の真ん中にいれてみました。

 

こうやってみるとまさに差別化戦略っていうのもこういうことだなって感じています。

 

またそれぞれの作品について個別でいろんな所感をまとめたいですね。

特にそれぞれのシリーズで「これは…!」っていう作品がこじま的にはあるので、気が向いたら個々の作品について書こうと思います。(ただし、いつ気が向くかは知らない)

 

それでは!

 

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なんだか写真がないとブログのアイキャッチがキモくなる仕様になったみたいで、これからカメラロールから1枚ピックしていこうと思います。

今回のゲーム関連であるかなーって探したら、使えそうなのはこれしかなかったです。しかもスプラトゥーンっていう無関係作品。

あとは友達に買った報告をするために撮ったゲームソフトのジャケットか、艦娘ドロップ・建造したときとか、ソシャゲの10連ガチャ結果とかロクなものがありませんでした。それよりはまだマシかなと思いまして。笑

 

遙かなる東京の中で

こんにちは。こじまです。

 

10月です。2019年も二桁のりました…!(もうやだ…時間の流れ)

そして東京にきて半年が経ちました。

 

しかしながら、未だに東京にいる感覚が薄いです。

新宿も池袋も身体的距離は近くなったのに、心的距離はめちゃくちゃ遠いまんまです。笑

まぁ、わたしがいるところがバリバリの都心から少し離れているからですかね。

(今度ようやく池袋に繰り出すんですよ…!ワクワク)

 

さてさて、東京にきて三大びっくりしたことは

①実は方言めちゃめちゃしゃべってた

うどん屋さんが見当たらない

③やっぱり世界は広い

です。

 

実は方言めちゃめちゃしゃべってた

当たり前かもしれないんですけど、関西弁をしゃべると関西では感じない

「うわー!今、関西弁しゃべってる!」感覚にすごく陥ります。

 

それに本当に無意識にこじま、言葉の端々が関西弁みたいです。

「行きしに」「帰りしに」って関西弁なんですね。知りませんでした。笑

 

あとはLINEです!LINE!

タメ口だとめちゃめちゃ関西弁で書いてて、毎度毎度

「これは関西弁なのでは…伝わるんか…これは…」

と通じるのかを危惧しています。

こんな感じで関西弁が出てないようで、出てるみたいです。

 

それにイントネーションって標準語いわゆる東京弁とかなり違うんですね!

これは自分では全然わからなくて、毎回指摘されるたびにびっくりします。

最近1番びっくりしたのは「ポテト」の発音です。

はい、わたしはポ↘︎テ↗︎ト↘︎です。

  

 うどん屋さんが見当たらない

こっちに来てから食べたうどんは学食か自分で作ったのくらいしかなく、おうどん屋さんがびっくりするくらいないです…みんな、そば屋さん…

そば文化なのは知っていましたが、こんなにかとも思いました。

 

やっぱり関東文化圏は食べものが違うなーっとつくづく感じます。

白ネギばっかりみかけて、はじめ青ネギ探すのに一苦労したりしました。

ヒラメとかの白身魚をあんまり見かけないし、今の季節に想像以上に秋刀魚めちゃめちゃ推しててびっくりしました。

 

名前忘れてしまったんですけど、サメ(?)みたいなのがすごい安く売られていて「なんだ…これは…」と思いながら買ってみて調理して食べてみました。全く味がしませんでした。笑

 

③やっぱり世界は広い

それなりに外の世界を知っているつもりでしたが、やっぱりいつまでも井の中の蛙なんだなーって感じました。経験は大事。

 

雰囲気の話なんですが、東京はなんと言えばいいのか"有象無象感"がわたしが関西で過ごしていた地域よりも濃い気がします。駅で行き交う人を見ていても、すごい平均点って感じがします。ただ単に人が多いことの象徴なのかもしれませんが。

 

あとはやっぱり東京に来てこれまでと違う感覚の人と接する機会もすごい増えたので、と自分の"普通"と他人の"普通"の差が可視化されるのがすごく興味深いです。

 

そして、これまで自分が育ってきた環境ってすごい自分の人格形成に影響するんだってすごく実感します。(またこれはいずれ書ければいいかなって思ってます)

 

こんな感じで東京で日々暮らしています。

あとは時々、あちこち遊びにいっては「ここ、あの作品の舞台だった街だー」という感覚に浸り楽しんでいます。いわゆる"聖地巡礼"ですね!

 

どこかに行くたびに親に電話で「あそこ行った」「ここ行った」と報告しています。

(先日「登戸通ったよー。なんだっけー」と母に報告していたら「陸軍研究所やな」ボソッと父が電話の向こうで言ってて本当ブレない。笑)

 

いつまで東京という街で過ごせるかわかりませんが、また折を見て自分の東京生活を振り返りたいなって思います。

 

 

それでは!

 

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今、カメラロールにあるなかで1番"東京"って感じる写真をば。

 

ちかくてとおい

こんにちは。こじまです。

 

瞬きしていたら9月です。

お盆までばたばたと忙しく、8月下旬に帰省して家族旅行へ行って、帰ってから寝込み、東京に戻ってきてタッチアンドゴーで旅行に行っていたら更新が1ヶ月も空いてしまいました…

本当は実家に帰った時にストックを更新したかったんですが、お医者さんもびっくりの夏風邪で38℃の熱をだし寝込むという事態で。笑

 

さて、東京に戻ってきてから行った旅行先は最近何かと耳にする、韓国です。

韓国へはずっと行ってみたくて念願叶って行ってきました。

 

韓国へ行ってみたいなと思うようになったのは韓国語をかじるようになってからなんです。

そもそも、韓国語をかじるに至るまでこじまはそこまで韓国ひいては朝鮮に関してあまり何も関心がありませんでした。

 

なぜならあまりにも朝鮮系の人たちが自分の身近にいる存在だったので、彼らが隣人として自分の世界にいることが"普通"だったからです。

わたしが生まれ、主に育った場所はいわゆる「日本人」じゃない人達がいることが"普通"の街です。なんだかこういう書き方をするとすごく"国際的な良い街"みたいに見えますが、そんなに良い側面ばかりの街でもなくて。

住んでいる地域で人を区別することが当たり前で、ほんの少し昔までどこの地域に住んでいるのか、どんな血筋なのかで人を差別することが"普通"だった街です。(今でもどの沿線に住んでいるかで値踏みする慣習が無きにしも非ずです)

 

そんな街で、わたしは「別に何語を話そうが、どこの出身だろうが、どこにアイデンティティを置こうが隣人は隣人である」というスタンスの両親の下で育ち、学校もいろんな人がいる中学・高校時代を過ごしたので韓国・朝鮮は「日本の近くの国」以上でもそれ以下でもない印象でした。

 

そうして生きてきたなかで、2014年に韓国で起きた「セウォル号沈没事故」が大きな転機でした。日本のニュースで日に日に増えていく犠牲者が報道され、その多くが自分と同じ年代の高校生だったのでどうしてこんな事故が起きたのかすごく関心がありました。

それに加えて、その事故に対する対応で当時の政権が批判されることも報道されていくことがわたしはどうして政権が批判されているのかがわからず、そのとき初めて「あれ、わたしって馴染みがあるだけで意外と韓国・朝鮮ついて何も知らない」と思うようになりました。

そして、自分が見えていないだけで実際は自分の街で朝鮮系の人々が晒されている状況が見えるようになってきました。ほんと「人は見たいものしかみない」っていう『シックス・センス』の名言はこのことだと痛感しました。

 

その数年後にゼミで過去にあった強制連行に関連するようなイベントをすることになり、もっと朝鮮関連について知るためにはどうすればいいかを考え、これまでの経験を踏まえた結果「そうだ!韓国語をかじろう!」と思いつき勉強を始めました。

(補足:こじまは中学校でタガログ語を勉強して初めてスペイン語に似ている理由や、ポルトガル語の先生がブラジル人日系3世だったことからその国の歴史背景を知ったりしました。今さら思うんですけど、こじまの出身校のカリキュラム作った人ほんまにすごいですね)

 

そして弟(K-POPオタク)に韓国語勉強したいからおすすめのK-POPを教えてと尋ねてみたら、見事にハマりました。笑

 

趣味レベルで勉強で言語能力としてもひよっこなので、何も韓国語について語れるようなことはないですが、アンテナは広がりました。

あとはぼんやりとした言い方ですが、近くて遠い国と感じるからあれやこれや起きているんだなと思いました。

 

そんなことから韓国という国はどんなものかが気になり、空気を吸ってみたくて旅行に行きたくなったというわけです。

 

着々(?)と旅行の手配をしていたらなんだか情勢が「うーん」となってきました。

中学時代から縁があり、今は韓国にいる友達からは「来るの?来れる?」と心配してくれましたが、わたしに旅行をやめる理由がないので行ってきました。(親なんかはわたしではなく、むしろその友達が「日本人」のわたしと会うことを心配していました。帰ってきた今さらに思うけど友達、大丈夫だったかな…)

その友達と『82年生まれキム・ジヨン』についてご飯を食べながら話すことができたり、インスタ映えに群がる人々が溢れる観光地で一緒に旅行してくれた大学院の友達と二人で黙々と展示説明を読んだり、シートマスクお兄さんに怯えたり、台風でゲストハウスでごろごろと一日中引きこもったり、飛行機の欠航を心配したりといろんなことがあった旅でした。(果たしてこじまの勉強の成果は活かされていたのだろうか…!)

 

そんな旅行についてはまた近いうち書きますね。

 

 それでは! 

 

 

栄冠は君が輝かす

こんにちは。こじまです。

 

気がついたら7月はどこかへ行ってしまったようです。

みなさん8月ですよ、8月。ひぇー。(周知の事実)

 

先日、大学院のゼミの飲み会で人生ではじめて『輪るピングドラム』について家族と作品を教えてくれた昔の塾の先生以外の人と話すことができました。こじまはとてもとても感動しました。ううっ…(涙)

 

さて、知っている人は知っていますがこじまはオタクです。バリバリのオタクです。

 

そして、ついに…!

こじま、Netflixに登録しました!めちゃ今さらですが!

もともと『13の理由』に関心があって、登録したかったんですがアニメもめちゃくちゃ観れるんですね!すごいですね!!

 

ドラマは結構重い系を観ているので、合間合間にアニメを挟むという感じで観ています。(研究についてもっと考えるべきだとは思いつつ…)

 

そのなかでもダントツに高校のバレー部を舞台とした漫画を原作とした『ハイキュー』を観ています。

f:id:u_w_wanna-next:20190802204233j:plain©︎古館春一・集英社東宝

www.j-haikyu.com

 

わたしはよくアニメや漫画を楽しみながら「うわー!人生ーっ!」とか「うわー!"社会"ーっ!」と思うことが多いです。(こじま、ボキャ貧かよ)

 

そのなかでも『ハイキュー』は実生活における物事の考え方の参考になります。つまりは前者です。

 

そこで、こじまの独断と偏見による『ハイキュー』において数ある「人生ーっ!」って悶えた瞬間のなかでも特に「"努力"するということとは一体なんなのか」について考えさせられた言葉をいくつかピックアップしたいと思います。

 

 

 

 「お前は3年間何やってたんだ!?」

f:id:u_w_wanna-next:20190802205152j:plain©︎古館春一・集英社

のちに高校でチームメイトとなる主人公の日向翔陽と影山飛雄は最初、中学の大会では対戦相手として出会うのですが、そこでセンスも身体能力も秘めているのに全く試合中に活かせなかった日向に対して影山が言った言葉です。

 

日向は中学では部員が全くおらず、 3年生になってようやく試合にでることができました。そこに至るまで試合メンバーをかき集めたり、1人でも練習したりと日向本人はものすごい"努力"を積み重ねてきたけれども、その背景を知らない影山にとっては勝利という結果をもたらさなかった日向の"努力"はなかったことになってしまいます。

 

どんな努力も"正しい"努力だけれども、結果に結びついていない努力は"努力"とみなされず切り捨てられることは往々にしてあると痛感します。

 

「勝負事で本当に楽しむためには強さが要る」

f:id:u_w_wanna-next:20190802211037j:plain©︎古館春一・集英社

 日向や影山と同じ1年生のバレー部部員のなかで1人だけ控えの山口忠。彼がピンチサーバーとして一瞬はコートに立つことができ、「試合に出れてよかったな。楽しかったか?」と聞かれたけれども、思ったように練習の成果は出せないし、ほかの1年生のようにバレーが出来ないことが悔しく、「ちっとも楽しくなかった」と答えた後にサーブを教えてくれている嶋田さんから伝えられた元・烏野高校バレー部監督の言葉。

 

生き生きとして「ここは自分の領域だ」と宣言するにために誰かに負けない"何か"が必要だなって。

ここで言われる"強さ"は直接的な実力やセンスかをはじめとして、周りの声を無邪気に無視できることや「自分はできる」と言ってみせることも"強さ"かなと。そうした"強さ"と総称される"何か"が勝ち負けや優劣が決められる場で「楽しい」と感じる上で必要であることは確かだと思います。

 

 

「そんなもんプライド以外に何が要るんだ!!!」

f:id:u_w_wanna-next:20190802210617j:plain©︎古館春一・集英社

 

 そして、そんなほかのメンバーのように戦えない鬱屈とした気持ちを抱えた山口が幼馴染で日向や影山のように1年生でレギュラーを張る月島蛍(以下:ツッキー)に対して吠えたこの言葉。ツッキーは日向と同じポジションで日向よりも背は高いし、日向とは違う才能を持っているのに諸々の過去の出来事から「どうせ1番になれないのに、頑張ることは苦しいこと」と半ば諦めています。「どうせどこかで負けるとわかっているのに、本気でやったことに結果がついてくるかわからないのに、みんなどんな原動力で動いているんだよ!」と練習に身が入らないツッキーに山口くん、プッツンしました。(アニメでのこのシーンも良いです…動いて、声がつくことで、さらにグッときました)

 

負けたくないことに理由がいらないことにも通じるものがありますね。1番を目指そうとしないなら、絶対1番にはなれないなかで結局は自分の中でどう感じているのか、どうしたいのか、どうなりたいのかというプライドが原動力になる。プライドがなければ何も始まらないですね。

 

 「才能は開花させるもの ーセンスは磨くもの!!!」

f:id:u_w_wanna-next:20190802215801j:plain©︎古館春一・集英社

 主人公達が所属する烏野高校のライバル校である青葉城西のキャプテン・及川徹のモノローグです。及川は影山の中学時代の先輩でもあり、"天才"として描かれる影山とは対照的に徹底的に"秀才"として描かれています。

どこまでも才能では"天才"には勝てない"秀才"は永遠に"天才"に勝つことができないのかという命題に対して才能とは初めから持っていることを自覚しているものではなく、自分で掴み取り、磨き上げるからこそ"才能"たりえるのであって、"才能"自体の有無ではなく、いかにそれを知り、磨くかが勝利するうえで重要であると示しているなと思います。それが今日なのか、明日なのか、歳をとっても、もしかしたら死ぬまで見つからないのかわからないですが。

 

こじま自身は"才能"って人が努力して成し遂げようとしていることに対して自分は努力している感覚なしにできるからこそはじめは自分では見えないものであり、それこそ他人との関わりのなかでようやく自覚するものだとも考えています。

うまく言えないですが「才能があることを自覚していない」=「達成に必要な能力値が下駄履いてる状態」ってやつですかね。才能を磨かないとずっと下駄を履かせてもらっているだけで、本当の意味で自分の力ではないって感じです。

それに「才能がない」なんて思った瞬間からもう一生、才能を開花させることは叶わないですね。「才能はあると信じて磨いてなんぼ」です!

(ドンガラガッシャーンってなった後にコートに戻るときの泥臭さが及川のスタンスを象徴している感じがして好きです。これも動くからこそ出てくる良さかなと。ちなみにこのモノローグがでてくるアニメ2期24話のBパートだけでも少なくとも5回はNetflixで観た)

 

「直接点になってないプレーも後々、効いてくる」

ああっ、ここだけ…!ここだけ画像が見つからないし、動画も見つかりません…!

ううっ…残念です…!

 

これは春高バレーの決勝戦で全国常連校である白鳥沢学園のエース・牛島若利のスパイクを止められない選手たちに対して烏野高校のコーチがしたアドバイスです。

先述のツッキーの「どうせ1番になれないのに」や才能を開花させるため云々の"努力"をすることとセットにして考えると、たとえ欲しくて欲しくてたまらない才能を手に入れることができないとどこかで諦める瞬間が来たとしても費やした数々のものはしっかり糧になるということだとこじまは思います。

いわゆる「雨だれ石を穿つ」+「急がば回れ」かなと!笑

(うえーん。画像がみつからないから、なんだかここだけあっさりしてしまう…)

 

 

そして、ここまで挙げてきた『ハイキュー』の言葉から、こじまは「何事も経験してみてこそ」という持論に至りました。

 

なんとここまで3000字も書いてきました。笑

ふいーっ。こじまは満足です!

 

それでは!

 

(余談)

アニメを観ていたら原作が読みたくなったのですが全部実家ですし、ジャンプ系は単行本の刊行サイクルが早すぎて一瞬でどこまで買ったかわからなくなり、東京でどの続刊を買えばいいかわからくなってしまいました。全然原作が読みたいのに読めないので「ううーっ。ハイキュー読みたい"い"っ…」と悶々としていたら、実家からは大量の野菜などの"配給"物資が送られてきて一種のテレパシーは通じたのだと1人でツボっていました。

こだわらない勇気

こんにちは。こじまです。

 

最近、ミントとバジルの栽培キットを3割引で購入しました。

(自分で栽培すれば安上がりではないか…!という安直な発想)

「晴れたら植えるぞー!」と意気込んでいるのですが、全然晴れません。悲しいです。

 

さてさて、東京に来てからこじまは"学生"という特権を使ってふらふらとしています。

とは言いつつも、大学院の修士課程は2年しかないのでそれなりに進路について考えることも多いです。

 

希望進路"未定"で入学していますし、今も「どうしよっかなー」っと思いながら日々暮らしています。

そういったわけで、せっかく企業がたくさん集まる東京にも来たのだし見聞を深めるためにも大いにふらふらしてます。

肩書きが大学院生しかないのは、これまでより身軽だということもありますし。笑

 

ですが、大きな壁が立ちはだかります。

こじまにはいわゆる"やりたい仕事"がありません。

どんな仕事にも楽しい側面と辛い側面はありますし。

 

わたしはしょっちゅう「働きたいけど、就職活動したくない」と口にします。

それは今の就職活動のセオリー(とされるもの)が「私はこれができる」と「私はこれがしたい」を中心に売り込んでいくスタイルに感じるからです。

前々からブログでも言っていますが、"アイドル"でありたいと考えるこじまはどちらかというと、他人の鏡になり、映る姿に合わせてその都度ごとに選択を考えることが多いのでこの売り出し方が「しんどい」と思っています。

 

(参考)ここでの"アイドル"についてはこちら

17-wwannanext.hatenadiary.com

 

悪くいえば「なんでもいい」なんです。

 

ここで、こじまの20数年の人生のなかでそれなりに大きな選択肢を振り返ってみましょう。 

まだ全学年揃っていない、ほぼ新設の中高一貫の学校を受験しようと思ったのは

「おもしろそうな学校だし、公立だし。それになんか受験する経験もいいかも」

カヌー部に入部したのは

「おもしろかったし、ほかにはない部活動だし」

文理選択で理系(物理・化学)にしたのは

「理系のイベントに行ってみたら理系学部楽しそう!理系科目も好きだし」

なんやかんやでなんでもできる学部に入学したのは

「文理で何かを選択するのはナンセンスでは…!?」

大学院に進学することを決めたのは

「なんか今、就職するのは違う」

 

 

 ここではかなり端的に書いていますが、もう少し考えてはいますよ!笑

けれども、側から選択の結果のみ見ればなんという気の向くままの選択なのでしょうか…

学部時代の研究も毎年テーマが違うし、ぱっと見すると共通点あるのかよって言いたくなるほどです。

大学院での専攻が歴史学だというのも我ながら本当にぶっ飛んでるなと思います…

 

けれども、共通点がないように見えて意外にあるなと。

それはいずれの選択の瞬間にも自分がやりたいことを選択して、自分なりに"やりとげる覚悟"を決めたことです。

 

いろいろ思い悩みはじめたころは「この節操ないと言われそうな人生選択でいいのか…」とくよくよしていました。

けれどもいろんな人と話して、これまでの経験を振り返って自分には軸がないと思っていたけれど、軸があったことがわかりました。

「自分の人生は"こだわり"をもたないというこだわりを持って物事を選択してきた」と思えるようになりました。

 

 例えるならば、以下のような日々で着る服の選び方だと言われました。(「な、なるほど…!わかりやすい…!」と感心した例えなので拝借します)

 

  • わたしは服を着て「こういう気分になりたい」と目的があるけど、そのなりたい気分は毎回変わる。行く場所によってでも変わる。
  • その気分になることを達成するために着る服のジャンルの決め打ちをしない。
  • ある瞬間に「今日はこれ着たい!」と思う強い気持ちもあり、その衝動に合わせて服を着ることもできる。
  • そして今日選んだ服を着て玄関をでたなら、もう悩むのはやめてその服を着たことを全力で楽しむ。
  • 毎日それを繰り返してここまで来ている。

 

確かにこじまは欲張りで、わがままなんでいろんな服を着たいんです。笑

欲張りに毎日違う服を着て、好きなジャンルは昨日と今日で違うけれど、その服を選んだ瞬間に「今日はこれを着て過ごす」覚悟を決めるそんなやり方もアリなのだと思う人がいるとわかりました。

 

それから"こだわらないこと"にこだわって生きて、修士課程が終わるまでにどこかで何かの覚悟を決めることが今のこじまの"やるべきこと"の一つなのだと考えることにしました。

そして正解の選択肢を探すよりも、自分の選択肢を自分のなかで"正解"にしていきたいなって思います。

 

そんなことを考える東京での3ヶ月でした。

 

それでは!

(こんなにも、はちゃめちゃな選択をしてばかりのこじまに対して「好きにすれば」と言ってくれる家族や仲良くしてくれる人たちには本当に足を向けて寝れません。ありがとうございます)

 

 

とある学生の就労猶予

こんちには。こじまです。

 

就労猶予はモラトリアムってぜひ、読んでください。

いわゆる、いっときライトノベルのタイトルでよく見かけたやつです。笑

 

はてさて気がつけば6月も終わりかけですが、こじまはアルバイトも始めて元気に東京暮らしを謳歌しております。

 

2年前の今頃はアニメの背景・舞台となった場所でオタクを待ち構えたり…(※研究のためです)

去年の今頃は突然「大学院いきまーす(無計画)」と言いだしたり…

そんなこじまが東京にいるなんて誰が想像していたでしょうか…


そんなこじまは東京で思ってたよりも全然ホームシックになりませんでした。笑

たぶんしょっちゅう家に電話したり、関西の友達と東京で会ってるからかもしれません。

まぁ、2駅先に学部時代の友達がいたり、新宿を中心に三角形の頂点の位置に私を含めたカヌー部の同期がいると自然と会うようにはなるなと思いました。東京オリンピックをトントン拍子に観に行くことになりました!(1番いい席でもバッチリ当たりました。さすがマイナー競技。笑)

 

東京に来て今のところ1番楽しいなと思う瞬間は自分が東京に慣れていく時です。"慣れていく"感覚ってこの瞬間しか味わえないですし!

はじめは電車に乗る時にどぎまぎしたり、エスカレーターは右に立ってしまったり、静かな車内にそわそわしたのに今ではなんとなくのコツを掴んだ感覚がします。この過程が楽しくて堪りません。

そして、住んでみるって経験が大事だと改めて思いました。


それと意外と関西人だとバレないです。

もっとすぐバレると思ってました。笑

 

この春に東京に来たばっかりと言うとバイト先の人とかにバレるどころか、むしろ驚かれることにこじまはびっくりです。

昔から標準語話者と話してるときは標準語に勝手にスイッチングしてるみたいなんですけど、こうもバレないと逆に面白くて。英語もこんな風にスイッチングするようになりたいです。笑


東京に来て新しい縁もできることも新鮮でおもしろいんですけど、しばらく会ってなかった友達と関西弁で話すことがこれまでの縁が新しく結び直されている感覚もすごく楽しいです。(これ、ラジオ深夜便に投稿して採用されて嬉しかったです。笑)


東京で学生している間にあちこち出かけたいなというところです。

 

それでは!

氷菓

こんにちは。こじまです。

 

6月も、2019年上半期も、気づけば過ぎようとしています。

ちなみに東京暮らしはなかなかにエンジョイしております!

 

エンジョイしているといってなんですが、このニュースを読んでなんとも言えない"もやもや"を感じました。

www3.nhk.or.jp

このニュースに関してはこじまのスタンスがはじめから偏っているので、正直なところ激おこにちかい"もやもや"なのですが、あえてネットの海で何に怒っているかとかについては言及するつもりはないです。

てか、しません。これはあくまでもブログに書こうと思ったきっかけになっただけであって、言いたいのはそこじゃないので。

 

少し前からも"ハラスメント"関連の報道のたびに感じていたことなのですが『なんでもかんでも"ハラスメント"と言えばいいだろうか…』、『報道に関するコメントが二極化してるけど重要なのはそこなのか…』とどうしても、もやっとしてしまいます。

 

わたし自身としてはこれまで問題視されていなかったことが"ハラスメント"という名前がついたことで解決に向かったこと、前に進んだことがあることを重々承知しているつもりです。そして、"ハラスメント"は今後なくなることが望ましいと思っています。

 

そのうえで感じるこの居心地の悪さは何か。

この居心地の悪さは今回だけでなく、ポリコレ棒で殴る云々かんぬんの話や相模原の事件についても感じました。

 

そして、それは"思い留まることなく外野が石を投げること"がひとつあるのではないか、というところに行き着きました。("外野"という概念が広すぎるので、説明するのが難しいのですが…)

報道は見える部分が限られてしまい、どういう背景で当事者が"ハラスメント"だと感じるまでに至ったのか、当事者・関係者それぞれの落ち度がどのように作用したのが全然見えません。

 

けれども、外野は簡単に詰って、そして石を投げるのです。

外縁に位置する人々が連帯感や共感をお互いに持つことができるようになったことはインターネットの功績です。けれども、外野の野次を詰る行為、石を投げる行為に押し上げたのも言うまでもなくインターネットです。

 

わたしも"外野"の一員です。大きい括りにおいては、みな当事者であるのですがそれと同時に、どんなに当事者に近くは行くことができたとしても当事者に共感・同情しても永遠に"外野"です。そして"加害者"だと思います。

 

特に「みなが"加害者"」だというのは相模原の事件の時には強く思いました。

犯人のしたことはとても許されることではないけれども、犯人に石を投げられることができる人は数えるほどしかいないのではないのでしょうか。

犯人が口にした犯行理由、その最初の芽のようなものは誰しも経験したものではないかと直感的に感じました。ある意味で犯人は"社会"の一つの鏡だとその時、思いました。

 

「犯人やばいよね」「許せないよね」だけじゃなくて、犯人をそこまで駆り立ててしまった"何か"にもっと目を向けなくてはいけないし、突き止めなくては明日には自分が犯人と"同じこと"をしてしまう可能性がある"社会"のままです。

 

ほかにも老後2000万円が必要かもしれないの報告を発端にして起きたデモを起こした人々に対して投げかけられた「税金泥棒」だって怖いです。

そんな発言をしたり、迎合した彼らは明日自分が税金で作られたセーフティネットに助けられるかもしれないことや、成功していると感じる自分の生活は多くの税金に支えられていることを忘れてしまった"現状"を声を大にして言えてしまう。

 

そんな"社会"の一面がこじまは、はちゃめちゃに怖いです。

 

正直、こういう自分の考えることを発信すると石を投げられそうで嫌だなと思うことはあります。

けれども、そういうことも言ってもいいかなと思えるのもまた、インターネットの世界なんですよね。難しい。笑

 

声をあげることもなく死んでしまう可能性はほんの少し下がったけれども、屈折してしまっている物事の解決は日進月歩ですね。

 

兎にも角にも簡単に寄り添うことができ、糾弾し詰ることができるからこそ、見えない部分がたくさんある。そう認識しなくてはいけないな、と強く感じました。

 

それでは!

 

今回のタイトルはとある小説です。

本編のネタバレになるので、どうしてこのタイトルなのかは書きません。

こじまはこの著者の作品はストーリーも良いし、気づきも多くて好きです。