こんにちは。こじまです。
今日はワーカホリックなこじまと”引き出し”のおはなしです。
”やらなきゃ”の原動力の1つのおはなし
(あ、別にそんな暗い話じゃないです)
友達に更新頻度を考えないとネタが尽きるといわれてペースを考えていたら、ぶっ倒れました。(因果関係はありません。笑)
結果1週間ほど寝込んでいました。この時期のこじまあるあるです。
毎年、ほぼ確実に電池切れのように1月末から2月のどこかで1週間近く寝込みます。
今回の電池切れは高熱にうなされているなかで、『生きねば』と謎の使命感にかられながら雑炊やうどんをかきこみ、寝て覚めて寝てを繰り返してまぁ、なんとか気合いで携わっていた企画に行って。
そして熱が下がりかけてきたなかで真っ先に考えたのが
「仕事のメール返さなきゃ」とか「やらないといけないことやらなきゃ」
そして布団に潜りながらパソコンをいじってました。(親にみつかって寝ろとめちゃめちゃ釘をさされた)
病気のピークがすぎたら、自分のやるべきことを考えてしまうあたり正直、自分でもそっちのほうが遥かに病気だなって思います。
しんどいしんどいって言いながら、スケジュールを詰めていないとそわそわしたり。
大学の研究や勉強、委員会の会議や作業とかの合間を縫ってアルバイトをしていくと毎日どこかで働いていることに全然気づかなかったり。
もうやめてやる、ほんとムカつくと思っても委員会の仕事を続けたり。
泣きながら作業したりとかすることもあるんですが、やらないとって思うんです。
それは半分くらいは脅迫観念かもしれないです。
けれども『これを乗り越えたら何か見たこともない何かが見えるかも』、『自分はもっと遠くへ行けるかも』のほうが勝つんですよね。
泣きながらしていることのどれにだって原点には”楽しい”があったのは事実なんです。
でも続けていくとそればかりじゃなくて”楽しくない”の壁にぶつかります。
そこで終わりたくないなと思うのなら壁を破るしかない。
ただ単にぶつかれば壊せるものではなくて、その壁は強さがないと破れないとわたしは思います。
楽しむためには強さがいるんです。
強さに正しいも間違っているもないですが、強さのあり方の1つに『自分の引き出しにしまえるか』があるんじゃないかなと思います。
そのとき得た知識、目的や目標を達成して誰かに認められたときの達成感や、たとえ今すぐには報われなくて味わったくやしい気持ちも全部全部わたしの引き出しの中にしまわれて。
知識や経験取り出すことはもう死ぬまでない引き出しがあるかもしれないけど、わたしというタンスは引き出しが増えるたびに大きくなっていく。
タンスが大きくなればなるほど、また新しいスペースに引き出しをみつけることが楽しくなってきて頑張れる。
あるとき作業なんかをしているときに全然違った引き出しから取り出して使ってみると実は引き出し同士は繋がっていたり。
それがわかると「ほわぁー!そこはそうなるのか!」と推理小説のトリックがわかったときの感動がたまらなくなります。(あくまでこじまはです)
わたしの大好きな漫画の1つ『ハイキュー』のある登場人物のセリフに
「自分は天才とは違うからと嘆き、諦めることより自分の力はこんなものではないと信じてひたすら真っ直ぐに道を進んでいくことは辛く苦しい道かもしれないけれど、才能の開花やチャンスをつかむのは今日かもしれない」
というのがあります。(ハイキューは名言の宝庫なのでいっぱい紹介したい。こじまのバイブル)
わたしの引き出し論もこれと一緒じゃないかなって勝手に考えてます。笑
どこまで自分は強くならなくてはいけないのか。
本当にわたしに才能はあるのだろうか。
いつになれば「わたしのやってきたことは間違ってなんかなかった」と自信が持てるのか。
泣いても喚いてもその答えは誰も教えてくれなくて、自分でもわからなくて。笑
けれども真っ暗なその場に留まってやめてしまうよりは、わたしは前に進もうと思います。
もがいて、もがいて、もがいてその先には新しいわたしがいると信じるしかできないですが。
こんなことを考える、とある冬の日でした。
それではわたしの好きな曲の歌詞を置いて、今回は終わろうと思います。
「君は全部わかってるだろ?ぼくの親友なんだから。 朝はまたやってくるって」
「どんな暗闇も、どんな季節も永遠じゃないから花は咲くんだって」
「あと少ししたら、あと何回か夜を越えれば会いにいくよ。迎えにいくよ」
「寒い冬が終わりを迎えて、また春の日が来るときまで。花が咲くそのときまで、もう少しそこにいて。待っていて」
(元は日本語ではないし、失恋曲っぽいけどいいように訳して、自分を励ましてます。読み取り方は人それぞれだしね!こういう風に好きな歌詞の曲紹介していくの楽しいかも)