こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

認め認められて生きるのさ

こんにちは。こじまです。

 

先日、3時間かけて書いたブログ記事がサーバーダウンで爆散しました。笑

自分なりに書き上げて達成感があったのですが、扱ったテーマが結構センシティブなもので、爆散したということはきっと公開するなということだと思うのでそっとしておきます。

 

ただ、そのおはなしの中で取り上げた「認めること」「理解すること」については話してもいいかなと思い、こうして書きおこしてます。

 

世の中ではこの「認めること」「理解すること」をごっちゃにしてしまうから複雑になってしまう事柄がたくさんあるのではないでしょうか。

 

世の中に存在しているものは誰かにとって正解・部分点・不正解のいずれかにあてはまると考えます。そこでは自分にとっての不正解は誰かには正解だということが往々にしてあります。その逆もまた然り。

 

自分が不正解だと思うことに対して、正解だという人に『はぁ?なんで正解なんだよ!おかしいだろ!』と襟首掴んで「詰め寄らないこと」「認めること」

 

自分が不正解だと考えるけれども、正解だと思う人はなぜ正解だと考えるのかについてほかの人に「説明できること」「理解すること」

 

どうでしょうか。こじまの考え、伝わったでしょうか。笑

 

こう捉えてみると「認めること」と「理解すること」の間には大きなハードルがあるかんじがします。こんなにも性質の違う2つのことをまぜこぜにして議論をしてしまうとずっと平行線だなーと。笑

よくよく自分のまわりをみてみるとよくあることだと感じます。もちろん、わたしにもあることです。なんたって、この2つは字面はよーく似てますもんね。

 

たとえば嫌いな人がいて、同じ空間にいて。

その人を追い出すことは簡単だけれども、そこから追い出さないのはその人を認めているから。ここはわたしだけの世界じゃないから。そして、その人がわたしにはできないことができることを認めているから。

ただその人の思考回路はわたしには理解できないから、わたしのポリシーとは違うから嫌い。その人が大事にしているものと、わたしが大事にしているものが違うので理解できないことは仕方がないことでもあると思います。

 

「理解できないこと」は悪いことでも間違っていることでもないとわたしは思います。けれども人ってどうしても感情が先走ってしまう生き物なので、「嫌い!理解不能!」があると評価がマイナスから始まったり、許容範囲が狭まったりしてしまうという事実があるのが難点ですね。おそらくこれが「認めること」を脅かしてしまうんですよね。

 

いろんなところで「理解すること」ができないことでも「認めること」ができるようになると世界はもっと違うかもしれませんね。

 

けれども「認めること」が簡単なようで難しいから、こういろいろ複雑なんですよね。きっと。

 

さて、最近はどんどんおはなしが長くなってしまうので今回はここらで短く終わりましょう。笑

 

それでは!

 

願わくばこの記事を読んだ方にとって、何かしらの気づきがあらんことを。