こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

僕と"僕"と僕の生きる道

こんにちは。こじまです。

 

ここ最近の自分のなかでのモットーは『人生は"アイドル"だ』です。

それは別に「外見がどうのこうの」とか、「ファンがいるからどうのこうの」ではなくまた違う意味で考えています。

 

まず"アイドル"は表現者という括りのなかでは最も周囲の人々から「こういう人でいてほしい」という願望を向けられる存在だと思います。なので"キャラクター"が作り出され、それに適った行動を求められます。その"キャラクター"はどこまでもついてきて。本当の"自分"はそっちのけで、社会との接点ごとにある自分において「なりたい自分」「求められる自分」の狭間で悶々とし続けなくてはいけません。

 

 またほかにも人生と"アイドル"が繋がるなと感じる部分は『舞台は自分ひとりでは決して成立しない』ということ。月並な言葉で言うなら『人生誰もが主役』です。そして『人生誰もが誰かの裏方』です。自分の努力がどこに行き着くのか。矢面にたつことは辛いけれど、ステージを突然放棄してしまうことは自分のために尽力してくれた人たちの気持ちを蔑ろにしてしまうなと。(だからといって死にたいと思うまで頑張れという話ではないです)

 

アイドルを追いかけるようになってから、ぼやぼやとそんなことを考えながら自分の糧にして生活してます。(こんなこと考えてみてるから研究対象に対する目線とか言われる)

 

まずは「なりたい自分」と「求められる自分」の話からしたいと思います。

アイドルが常にコンセプトを抱えているのと同じようにわたし自身も「こうありたい」というコンセプトがあって。その理想と現実の狭間にいるのが"今"のわたしです。

 

新しい曲をだすたびにファンが増えるのと同時に「この前のコンセプトのほうがよかった」、「デビューしてから時が経って変わってしまったんだね」という言葉を投げてかけられて。去っていくファンがいて。これって言葉を置き換えるだけで日常においてもありふれたことだなって感じます。その行為は誰にも咎められるものではないけれど、言われた側にはなんだか堪えるものがありますよね。

 

そうやって自分を取り巻く人々が求める役割を推し量って、役割をこなしていくなかで、ふと「あれ"わたし"って何だろう。何がしたいのだろう」と感じて自分の軸が何なのかわからなくなって思考停止してしまいます。それは自体は誰しもあることです。けれども世界はそれでも回っているので。あっという間に取り残されてしまったような気がして正直怖いです。

 

そんな思考停止から抜け出したいのなら、いつぞやのブログ記事に書いたように自分の「こうしたい」を上手に作らないといけないですね。そして周囲が求めるものとの結節点を見つけていかなくてはいけません。けれども上手に作り上げた「こうしたい」が受け入れられるかどうかはまた別問題です。変わっても変わらなくても"わたし"は"わたし"でしかないのに難しいものです。この「変わる・変わらない」の是非は『「いちご白書」をもう一度』の時代でも言ってるので、永遠の命題なのかもしれませんね。(また古い歌を…)

 

僕は無精ひげと髪をのばして、学生集会へも時々出かけた。

就職が決まって髪を切ってきたとき、もう若くないさと君に言い訳したね。

『「いちご白書」をもう一度』

 

あんまり学生運動とかの映像を見たことなかったりしたらイメージしにくいですかね。まぁ、親が年寄りなので耳学問として知っているだけでわたしもその時代を生きてないので何とも言えませんが。笑

(完全なる余談ですが米澤穂信の「氷菓」、初野晴の「初恋ソムリエ」はこのあたりの時代がイメージできた状態で読むとよりおもしろいです)

 

ちなみにこちらは曲作りに関わった人自身も"君"と"僕"を対人と捉えるだけでなく、対自我としても捉えられると言っていた曲のとある部分です。この曲、対自我として歌詞を読むとなんか対人とまた違ってしんどいです。そしてなんで鬱屈とした気分なときほど鬱々とした曲って響くんですかね。笑(「大丈夫!なるようになるさ!」系と「もう世界しんどい」系の曲を繰り返し聴いていて情緒不安定かよとツッコミたくなるこじまのプレイリスト)

 

「見慣れない」っていうんだね。君が好きだった僕に変わった僕を。

「僕じゃない」っていうんだね。君がよく知っていた昔の僕を。

「違う」って何が違うのさ。僕はもう何も見えないよ。

『FAKE LOVE』

 

喜んでもらいたくて、もっと好かれたくて自分を変えてみたけれどそれを拒否されてしまうとショックで立ち直れないですね。たとえ周りから何を言われたとしても、人は毅然とした態度を貫けるのでしょうか。周囲とのズレが辛くてその"自分"を手放したところでそれでよかったのかと悩んで。

 

まわりを頼ったとしても結局、自分でどうにか折り合いをつけるしかないですね。

誰しもやじろべえのようにゆらゆらと倒れるわけでもなく、「なりたい自分」と「求められる自分」の狭間においてどっちつかずでバランスを取っているのでしょうね。

 

なんだか「なりたい自分」と「求められる自分」の話だけで文字数がえらいことになったのでもう一つの『舞台はひとりじゃ完成しない』についてはまたいつか書こうと思います。

 

それでは!