こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

寂寥と共に去りぬ

こんにちは。こじまです。

 

ついに先日大学を卒業しました。パチパチパチー

けれども卒業後も学生の身分だからなのか、正直あまり実感がないです。

 

来週から東京で生活していくわけなのですが、ここにきてものすごく寂しくなってきました。大学院は進学するところしか受験していないので、一人で暮らすことは前々からわかっていたことなのに不思議ですね。

 

東京に行く前に会っておこうと予定を詰め込みながら日々生活しています。

この前まで卒業旅行にすらあまり行こうという気も起きず、週5日9-17時でアルバイトに邁進していたのに手のひらを返したように遊んでいますよ、こじま。

 

けれどもアルバイトをしながらこういう人生の方向性もありなのではと新たな発見をしたり。お世話になったバイト先の職員さんと遊んだりして『"いい縁"だな』、『また会いにいきたいな』と思ったり。中高時代の友達と昔と変わらずわちゃわちゃとネットゲームしたり。

 

東京では東京の縁で新しい友達や向こうで働いている友達らに会えるのでわくわくすることもあります。

 

けれども、なんですかね。この"寂しさ"は!

 

わたしと同じように東京が拠点になるとわかっている友達といても寂しい、寂しいってずっとご飯を食べながら言っていました。

あとはほぼ毎日、晩ごはんは"家族"だったり"友達"だったりとご飯を食べていたので一人の晩ごはんに怯えています。たぶんそこが1番の寂しいと感じるポイントかもしれません。笑

 

この寂しさはどこで糧になるかわかりませんが、大事に東京へ持って行こうと思います。そして父からわたしは『勉強は好きだけど、勉強が足らん』とバシッと現実を突きつけられたので頑張らねばです。

(そしてそんな父がわたしの進学先付近の地域情報をめちゃ調べては楽しそうに報告してくれるので、たぶん一番わたしの進学を喜んでいる。口には絶対しないけれど)

 

そしてわたしの大学生活はなんだかんだ言いながらも、きれいにボタンがかかっていた4年間の大学生活だったのではと思います。

もうずっと言っていますが、ほんと世の中ってよくできていますよね!

あんまり今更あれやこれやと4年間について言及すると記憶を改変して、美化してしまうのでこれぐらいの感想のほうが自分のなかでちょうどいい気がします。

 

こじまの座右の銘人間万事塞翁が馬なので!

 

これからもこの壁打ちブログは気ままに続けていきます。

 

それでは!

 

うおーっ!片付けねばー!

We should talk anymore

こんにちは。こじまです。

 

3月ですね。

そして通算15年ほど住んでいるお家で寝て起きてをするのがあと1ヶ月を切りました。

東京に行く実感が微塵もありません。笑

 

ところで"批判"ってそんなに良くないことなのでしょうか。

このブログでは何度か書いた覚えがあるのですが、こじまのなかでは"批判"と"非難"は全く違うものです。

 

人はみんな違います。同じのようで同じでないことがたくさんあります。

さらに面倒なのが、使う言語が同じだと余計に"わかるっているようで実はわかっていないこと"になかなか気がつきません。

考え方が違う、正しいと思うことが違うなかで"いい塩梅"になる結果や方法を導き出すために、実は見えていないことを見るために"批判"が必要なのです。なので"疑問"も"批判"の仲間です。

 

その一方で"非難"とはただ相手を攻撃するためだけの行為で、その先に求めるものは何もないのです。

 

わたしは元来議論が好きな人間なので、"批判"することに抵抗がないのであまり気がつかないのですが結構労力がいるんですよね。

「こうじゃないの?」とか「なんで、そうなん?」とか言われると自分の考えを否定されて"非難"されている気分になってしまいますよね。

そういうときはそういうこと言ってる相手も何かを良くしようと思って発言しているのだと頭の隅の隅のほうで考えてみてください。

その人の指摘が自分が受け入れられないと思うのなら、そのことを相手にその場で口にして伝えてください。間違ってもSNSなんかに書き込まないでくださいね。それこそ、いつの間にか"批判"が"非難"になって人間関係がこじれます。笑

 

こじまが言いたいことは"批判"は会話のツールのひとつです

それとガンダムUCという作品のなかで好きな言葉の中に

『世の中のことすべては善意から始まった』というのがあります。

(この言葉の詳しい経緯は『機動戦士ガンダムUC EP4:重力の井戸の底で』を観てね!)

 "批判"だって何かをより良くしたいという想いに起因するのです。

自分自身のことや生活だったり。はたまた世界とか社会とか。

今の現状から何かしら変えたくて、今を批判して。 

 

「わたしはここをこうしたらもっと良くなる気がするのに」、「もっこういう世界になったらいいのに」という善意から"批判"は生まれるのです。もしかしたら、それはエゴになるかもしれないけれども、"批判"そのものを否定したらこの世は闇です。

"批判"することに資格はなく、誰しも"批判"する権利を持っているのです。批判することをためらっていては、現状維持という名の自己満足とも取れることもあるかなと思います。

 

なのでわたしは"批判"をしないことは何も見ようとしない、何もしようとしないことと、ある意味で同義だと思います。(強気)

わたしはエスパーじゃないので、言わなきゃわかんないことってたくさんあるって思います。だからこそ話さないといけないと強く感じています。

だからわたしは疑問に思ったことには「なんで?」と言うし、おかしいと思ったことや嫌なことも「それはおかしい」と言う。それから相手の考えも聞いてみることにしています。

 

けども、そんなことを言っときながら"意見を譲ること"はこじま、めちゃ苦手なんですよねー!はははーっ!

「わたしの考え方は!絶対っ!譲れないっ!うおー!」になりがちです。

もう少し自制はしたいなと思います。笑

 

あとはあくまでもわたしは"批判"をすることにかける労力に抵抗感がない人間だから、こういう思考なだけで世界中がこういう考え方になればいいとは思いません。

 

でもまぁ、第一印象が最悪でも話してみたら違ったというのと同じように"批判"もぜひもう少し気楽にしてみてください。 

また"批判"をすることと同じようにに嬉しいと思ったことは嬉しい、好きなものは好き、ありがたいなと思ったことはありがとうと表現しようと思います。

 

ま、とにかく画面にばかり向き合っていたり、特定の内輪だけで固まるのではなく、いろんな場面で自分の気持ちや考えを相手に伝えようとする姿勢が大事だとこじまは伝えたいのです!経験も知識ですから、いろんな人と話すほうがこじまは好きです。だからいろんな人の考え方を知りたいから"批判"を会話のツールに使っています。

 

 それでは!

 

ハッピービターライフ

こんにちは。こじまです。

 

今度雪山に遊びにいくのにあったかいなんて…

雪が溶けちゃわないか不安で不安でたまりません。

 

先日、外見は男の人に見える方の戸籍上の性別が女性であることがわかったことがあったときに、おばちゃんが驚き気味に近くにいた人にボソッと「あの人の性別、女の人ですって。おなべちゃんなのかな」というのを聞いてしまいました。

そもそもこのおばちゃんがしてることは守秘義務違反だし、その発言にもムッとしたのですがそれと同時に「あ、そっかー。まだまだこういう反応が世の中の"普通"なのかー」とふーむと考えていました。

自分と違う記号に対して好奇の目で見ることは別に何も間違いではないことは強調しておきます。そういう視線はなくならないけれど、突き刺さらないようになればいいなとは思います。

 

 正直、性別とか友人関係とか"家族"に関する"普通"はわたしにとってはしんどいことが多いです。良くも悪くも「"普通"ってなんやねん。"みんな"って誰やねん」という発言が当たり前の家に生まれた育ったからかもしれません。

  

例えば、どうして結婚したとしても同性の友人と二人で出かけることは咎められないのに、異性の友人と二人で出かけることは出来ないのですか。恋愛は友愛より価値があるのですか。

ほかにも、昼間に住宅地にあふれている人々は老人と女性と子どもばかりで、どうしてそこに若い男性がいたら「仕事してないのかな?不思議だな」なんて思われないといけないのですか。そう思うことは、子どもの手を引いているのが女性ばかりであることを受け入れているのと同義だし、女性だけでなく男性に対しても概念の押し付けです。

 

なんで疑問に思わないのかのほうが、こじまは不思議です!笑

 

このようにこんなこと言い出すとキリがないです。

日々いろんなことに「ええー」って思いながら過ごしています。

特に男性はこうでなくちゃと女性はこうでなくちゃであふれている世界はしんどいです。

 

結婚とは男女が恋愛関係であって、子どもがいて。

男性が働いて女性が家事をして。

 "家族"は血を分けていて。

 

あー!ほんまに!うるさい!笑

 

特に"家族"と恋人についてはもういろんな問題の集大成感がこじまの中にあります…

 

わたしが"家族"についていえることは『"家族"は血の繋がりがすべてではない』ということだけです。 

恋人については今はというかこれまでの人生を通じて現在完了形で本気で欲しいと思ったことがない人生だって肯定してほしいです。笑

口では「彼氏ほしいわー」って会話の流れで言ったことあるけど全然本気じゃないし、別に今はいらない。無理、ほかのことで毎日楽しくて忙しい。なので大概その人に対しての好奇心が尽きれば、わたしの"好き"は終わります。笑

だから「彼氏できた?」って聞いてくることは挨拶みたいなものだとわかっていながらも、「大きなお世話だー!このやろー!」と若干ムカついてます。恋人を作る自由があるのなら恋人を作らない自由だっていいじゃないですか!

 

わたしは今のところこんな感じですが、ある日突然「この人しかいない!」ってビビビッと感じる人が現れたらどうなるかなんてわかりません。

 

それは女性かもしれないし、男性かもしれない。

歳は近いのかもしれないし、離れているのかもしれない。

恋人かもしれないし、友人かもしれない。

人かもしれないし、ほかの動物かもしれない。

そんな存在が現れるのは今日かもしれないし、死ぬまで現れないかもしれない。

 

ただただ、わたしの季節であって窓である"家族"ができたらなと願っています。

 

そんな"家族"ができる日を夢見ながら、こじまはしんどいなーと感じる"普通"との妥協点を探りながら、毎日を楽しく過ごしています。

 

"普通"が理解できなくてしんどいと思うことも事実であり、そのなかで"普通"に囚われないから「わたしの人生最高!」と思うこともまた真実なので。

 

それでは!

 

P.S.

いろんな意味をこめてアメリカの刑事ドラマ『インスティンクト』はすごくいい作品だったと推しておきます。このおはなしの冒頭でも述べたような、こじまの夢見る"好奇の視線が突き刺さらない世界"を体現してる!とこのまえWOWOWで観て感動してました。日本語字幕がついてるPVはなかったので、こちらをば。

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・主人公の一人はゲイ。そしてその恋人もサブでよくでてきて主人公たちを助けてくれる。

・主人公たちの上司はアフリカ系で女性の管理職刑事

・その管理職刑事の婚約者はアジア系

短い話数のなかにこれだけの設定がありながら、作中で何も触れない世界観がすごくよかったです。

 

きみのこころは響いているかい

こんにちは。こじまです。

 

1月は"いく"と言いますが、本当にあっという間です。

もはや恒例の言い回しになってきています、この年月が早いのくだり。笑

それもこれも、いろんなことに節目が近づいてきているから、なおのこと早いのかなと思います。

 

先日『さよならの朝に約束の花をかざろう』という映画と

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リメンバー・ミー』(原題:『Coco』)という映画を

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えんえん泣きながら観ました。

『さよならの朝に〜』は2日連続で観て、話の展開がわかっているのにえぐえぐと泣いてしまって。そしてBlu-rayを買おうと固く心に誓いました。笑

 

ふと、ここ数年のこじまの琴線に触れる作品のキーワードには"変わること・変わらないこと"があるなぁとぼんやりと思います。

きっと変わることや変わらないことに対して気持ちのベクトルが向いているからですかね。

 

例えるならなんだろう、今はもう解散してしまったGalileo Galileiの『夏空』の歌詞にある

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好きだった歌が響かなくなったな

誰のせいでもない。僕のせいでもないんだろう。

とあるように好きだったものが変わったりして。笑

 

そんな身の回りの"変わる"、"変わらない"を意識し出した作品はぽわぽわ青春群像劇だと思って観始めたら実はドロドロ人間群像劇だった凪のあすからです。

もはや最初のPVと2個目のPVだけでも印象が違いすぎる作品です。

(2個目はかなりネタバレもあるので注意です。良ければ作品観て欲しいです…こじま、Blu-ray全部持ってますし…!笑)

 

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この『凪のあすから』は"変わる"選択肢も"変わらない"選択肢もあって、そのどちらを選んでも間違いではないことを教えてくれた作品です。

そしてどちらの選択肢を選んでも誰かを傷つけてしまうこと、そして自分が抱える他人の感情とどこかで折り合いをつけなくてはいけないことを教えてくれました。

あとは"憧憬"は"友愛"になり得て、"友愛"と"恋愛"は共存し、"恋愛"は"親愛"であることも。

"愛"って深いなーって思いました。劇中のセリフのなかで「"好き"は海に似ている」は本当にいい言葉です。

 

 

話が少しそれましたが、自分変わったなと思った決定打は『君の名は』が全くおもしろいと思わなかったこと

あんなに大ヒットしているのに、と言われてしまいそうですね。

これまで新海誠の作品は全部観てきていて、どの作品も繰り返して観て響くのに『君の名は』だけは、なぜだか映画館で3回、家で2回観ても一度もグッとこなかったんです。

(というか、響かなかったというわりに見過ぎでは。「いや、まさか本当におもしろさを感じないのか」という確認をしていたらね…笑)

何度観てもおもしろいと思えなくて「新海誠、あんなに好きだったのに」と心がしゅるしゅると縮んでいく感覚でした。

 

それからアニメから少し離れて、絶対にあり得ないと思っていたK-POPにハマったり。

アニメ作品を観ることは以前より少なくなったけれど、今でも新旧のアニメをちらほら観たり。

 

ほかにも変わったことがあったり。

 

前は家事をあまり手伝わなかったけど、自分からする量が増えたり。

10回に1回は瞬間湯沸かし器みたいに怒らなくなったり。

デパコス集めることが楽しくなったり。

 

 具体的にっていうと難しいですけど「あー、変わってないけど自分、変わったな」と思いました。

でも、相変わらず自分の恋愛ごとには興味が湧かないところとかは今のところ変わらないけど、それに関連する気の持ち方は確実に劇的に地味に変わりました。

 

変わることがあったり、なかったり。なんでですかね。

 

きっとわたしに響いているものばかりで、わたしが出来上がっていくからですかね。

なんて。笑

 

さて、いろいろ終わらせねばー!

それでは!

 

 

2018年こじまの旅

こんにちは。こじまです。

そして、あけましておめでとうございます。

 

企画とか卒論とかしていたら、2018年が気づいていたら終わっています。

こじまのなかでは今が2018年12月ですよっ!

そして終わらない卒論!エンドレス卒論!!

 

もう潔く2019年になったことは百歩、いや五百歩譲って認めますが、まだまだやることも多くて忙しないです。(とは言いながらも1週間ほど雪山で現実逃避しながら過ごしていたんですけどね。へへへっ)

 

2019年を迎えるにあたって、少しばかり2018年を振り返ってみたいと思います。

わたしにとっての2018年は「あー。こじまは『ノリと運と縁』で生きているな」と改めて実感した1年でした。

 

2018年1月はちょうどこのブログを始めたくらいですね。

 そのころから春先くらいまでは「就活しないと〜(嫌々)」という気分でいっぱいでした。

仕事はしたいし働くのも好きだけど、じゃあどんな仕事がしたいかと言われれば思いつかないというのをずーっとグルグルと考えていました。なによりも就活の服装も耐えられないですし。笑

 

そしてES書いたり、ぽこぽこと面接を受ける日々のなかで母によく言われていた「いつか自分の性別や年齢が不利になることがあるから覚悟しないと」という意味が少しわかってきました。(例えば面接官はびっくりするくらい男の人ばっかりですし)

 

6月あたまくらいに今行きたいなと思う企業に落ちたらとりあえず大学院という選択肢にしてみることにしました。半ば「就活耐えられねぇ!」という感じで、ほぼ思いつきといっても過言ではないです。

こじま、飽き性なんですよ。ルーティーン化した作業はあまり好きではなくて。ルーティーンを改良したり、たくさんの欠片を集めてたり、まだ名前のついていないものを作るようなことが好きで。そういうことを仕事にするなら大学院の肩書きがあっても採用されるし問題ないなということも考えました。(大学院に行こうと思うと話した時「左様ですか。ま、自分の思うようにすれば」という両親には本当に足を向けて寝れません。笑)

 

2018年は自分の進路決定と組織のバタバタが大半でしたね。このダブルパンチとアルバイトで死にそうでした。

そんな飽き性なこじまが2018年の間中、組織の面倒をみていたのは本当に自分偉いなって思ってます。笑

 

「こっちのほうがいいかな」というノリで進路方針を決め、専攻も変えた大学院入試も運良く滑り込みました。組織のバタバタもなんとかわたしのできることはほぼ終わりに近づきました。

ここまでノリも運もありましたが、なにより縁でした。

大学院に行こうと思ったのも、元をたどれば浪人していなければ存在しなかった選択肢です。組織のバタバタも人の縁でたくさん助けてもらいました。

連絡しなくなって5年ほど経っていた友達から結婚式の二次会に呼んでもらったり。雪山で会った人が東京に行くんですという話から友達になったり。

 

人は変わっていくものですが、縁ってすごいなーと思いました。(語彙力がっ。笑)

 

さすがに違う大学で先輩してた前期課程(中学)の同級生が、来年には研究科は違うけど同じ大学院のわたしの後輩になることがわかったときには笑いました。いや、これややこしい。

 

あなどれないです「袖振り合うも多生の縁」笑

人生出来すぎでは…

 

でもなによりも、ぽやーっと友達に「わたし、ノリと運で生きてるわー」と何気なく話した時に「でも、そのノリと運で生きていくための努力をたくさんしてるよー」って返されたときは思わず、うるっとときてしまいました。

 

まだまだ2018年には思うこともあるので、時折思い出してみようと思います。

 

さてさて、人生楽しい記録を更新した2018年も人それぞれ思うことや悩みがありましたが、どれだけ時が流れても、他人の力になることはできるけど、その悩みの根っこを解決することができるのは自分のことだけなのです。

わがままで欲張りな自分と仲良くしながら、2019年もこじまはこじまとして生きていこうと思います。

 

それでは!

2019年もよろしくお願いしまーす!

 

陽気なバイトがお店を回す

こんにちは。こじまです。

 

骨の折れる作業をこなしていたら、本当に骨が折れました。笑

せっかく今月からはアルバイトに2つ復帰したので収入が増えると思ったのにしょんぼりです。

みなさん、信号は余裕を持って渡りましょう。信号が点滅して慌てるようなタイミングはいくないです。

 

前にちょろっと書いたかもしれませんが、こじまはアルバイトを掛け持ちしています。

なんてったって毎月の諸々経費と遊ぶことや趣味への投資がやめられない。

しかも「これは楽しい匂いがするっ!」となるとお金に糸目をつけないで使うので。笑

あとは来年からは一人暮らしを始めるうえに世間的にみたら高等遊民なので少しでも貯金もしないと…(すでに火の車すぎてどうしましょう)

 

今日はそのうちの1つである、老舗喫茶店についてのおはなしです。

このアルバイトは安直にはじめました。そう、安直。

 

「収入が足りない…」⇒「家の近くでアルバイトしよう」⇒「接客業したことないな」⇒「コーヒー好きだな」⇒「喫茶店だ!」

という具合でふわっと応募したアルバイト先です。

そしてこのバイト先がおもしろいのです。週1くらいしか入らないつもりが気づけば週3、4くらいで働いているくらいです。シフトに入っていなくても遊びにもいくほどです。(まずなによりもタウンワークのアプリで見つけて面接の日時を決めた時にお店のマスターから空メールが返ってきた時点でおもしろい)

 

1976年からある喫茶店はレトロが売りになってきていて伝票は手書きですし、レジにいたっては少し形は違いますがコレです。

21号レジスター©NCR

「わぁー!レトロー!」と無邪気にお客さんは言いますが、こじまは必死です。

うちのレジくん、足し算しかできないのです。打ってしまったら引けないのです。

なんだか人生みたいですが、つまりは打ち直しもできないし、おつりの計算も自力です。

なので上手に500円や50円が返ってくるようにお金をだされると一瞬のうちにすごい暗算してます。ボケなくていいですね。(この前レジくんが勝手に50円を刻む病にかかったのでマスターと一緒に頑張って直しました)

 

そしてそしてメニューの数がめためた多いです。

コーヒー、紅茶なんかの飲み物以外にもサンドイッチ系もありますし、コーヒーゼリーやアイスクリーム、ワッフルなど甘いものも豊富。

さらには焦がし塩バターキャラメルうんにゃらかんにゃらやトリプルメープルうんにゃらかんにゃらをはじめとした今時のものも。しかも豆も売っている。

 

うちの店、絶対スタバに負けてない。笑

 

忙しいときは本当に忙しいお店です。

いっぺんにお客さんがくるとてんやわんやです。

「マスター!ハムサンドじゃなくてミックス!ミックスサンドです!」

「マスター!あれ、これどこテーブルのピザですか!?」

「マスター!これマンデリンとサントスどっちですか!?」(淹れてしまうとわからない)

こういう感じにカウンターごしにわわーっとなったり。

 

こじま(一応フード系だったり冷たい飲み物は一通り作れる)

(やっばぁ…バター抜きっていわれて勢いあまってマヨネーズまで抜いてしまったたまごサンド出してしまったぁ…)

(クランベリーソーダの仕上げにストロベリーシロップ使ってしまったぁ…) 

というミスもしてしまいますが、ありがたいことにバイトとしてなんだかんだで重宝されています。笑

 

毎週フリーのオルガンライブもあるし、2階でライブもあるし賑やかでいいお店です。

常連さんもみんないい人だし、一見さんもいい人。

 

うちの喫茶店のおもしろいところや良いところを挙げるとキリがないのでここら辺で切り上げます。あと少ししかこのお店で働けないのが本当、残念です。

 

その前にはやく骨折を治そうと思います。笑

 

それでは!

 

 

 

 

我がために努力はする

こんにちは。こじまです。

 

食器を片付けようとしたら手が滑って、素足の親指にフォークが降ってきました。しかもつき刺す側です。悶えました。

 

そんなことはさておき。

このブログを読んでいる方はよくご存知かもしれないですが、こじまはよく「頑張る」とか"努力"を口にするのです。

しんどいとか愚痴りながらもいろいろしていて、きっとわたしの周りには「そんなにやらなくても、いいんじゃない」 と呆れている人も多いと思います。笑

 

正直、今もわたしがそこまでやる必要のない"努力"をしています。それよりも立場的には卒論に時間を割かないといけないです。

今やっていることは『新年度が始まって走り出したものは止められない』というある意味、わたしとは関係ないところでの事情で動いているもので、学生の身分のこじまは突っぱねてもいいんだと思います。一応、慣習では引退した身なので。

 

けれども関わってしまうのは

『「投げ出した」という感覚になりたくない』というエゴが8割です。

残りは妙な責任感と使命感…かな。笑

 

例えるなら『3月のライオン』の主人公が中学生でプロ棋士になり、はじめは高校に進学しなかったけれども1年遅れで高校に入った理由を聞かれたときの返答に近いです。

31©羽海野チカ

あとから辛くなると「投げ出した」記憶に縋りたくなるんですよ。

『「投げ出す」ことをしても別に死ぬわけでもないし、なんとかなってるし。なんとなく世界は回っているし。』みたいな。笑

 

一度、「投げ出す」とそれをするハードルも下がります。

だから段々「投げ出す」ことに慣れていき、それをしていることに気がつかなくなり、「投げ出す」ことは別の何かに都合よく切り替わっていくものだと。

 

それに「やらない理由」を探して正当化させる論理を構築する時間を費やすよりも、やったほうが早いし得るものもあると思うのです。いろいろなことに。(それに、自分の意見を正当化しようと息巻いて論理を組み立てていくと、大概すぐ破綻するんですよ。)

 

わたしは『"努力"は必ず報われる』とは思わないです。

ですが、『"努力"は必ず活きてくる』と考えます。

 

何事も時期的な区切りや物事の結末まで見届けて、はじめてそこに至るまでの良かったことも悪かったことも自分の経験になり、人生の選択肢のカードの1枚になるのです。

やっぱり人生の手札はロイヤルストレートフラッシュにしたいじゃないですか!笑

たくさんカードを引けば、手札が揃う確率も上がります。それにポーカーを何度もすれば"賢く"カードを切る方法もわかってくるじゃないですか!(ポーカーあんまりしたことないけど!)

 

今日の"努力"が日の目をみるのは明日かもしれないし、10年後かもしれない。

もしかしたら死ぬまで結実しないかもしれないけれども進むしかないです。

 

わたしはいつか死ぬその時まで、飛べないなら走って、走れないなら歩いて、歩けなくても這っていくのです!

なぜならわたしがそうしたいから! 振り返ってみれば『全部自分のしたいことだった』と思いたいから!

 

今やっていることは区切りが来たらすっぱりやめます。2018年もしくは卒業という区切りで一度終わりにして、次の"引き出し"に新しい"努力"を詰めていこうと思います。

もう向こう5年くらいはこんな経験したくないです。ははっ。笑

 

 

今の状況下で卒論もちゃんと書き上げて卒業したら誰も文句ないですよね。

今していることから学ぶことは『10の労力で100の仕事をする』ですかね。笑

 

ただ、わたしも人間なのでたまには矛盾した愚痴もどうか温かい目で見守ってください。笑(人手も足りないので、あちこち至らないとこは許して…!)

  

それでは!