こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

すべてが記号になる

こんにちは。こじまです。

 

ちょっと前まで7月は一桁台の日付だったのに、気づいたら8月が迫っています。おかしいですね、わたしの周りの時空が歪んでいるのかもしれません。

最近言われておもしろかった言葉No.1の「人生何回目なん?4回目くらい?」と言われたのも時空が歪んでいるせいで、あながち間違いではないのかも。笑

 

それはさておき。ひょんなことから「国際化」とは何かという話になったので、息抜きに眠らせていたこの記事を書き上げました。(ああっ、先にやるべきことをやりましょうと石を投げないでっ…!笑)

 

巷では「国際化」を持ち出すことが最近はすごく多いと思います。わたしはその言葉が溢れかえる一方で昨今の「国際化」はちゃんちゃらおかしいなと思うことが多いのが現実です。

わたしの思うこの言葉の広く持たれているイメージは大学が売りにするところだと留学だったり語学力に結び付けられている気がします。(わたしの通う大学然り)

個人だとFacebookなんかのSNSで自己発信を他国の人にするとか、外国人の友達がいるとか、英語がしゃべれることだったりというあたりですかね。

別にそれでもいいと思うの部分もありますが、そこで終わるとただの量産型自己満足にすぎないのではないかと。

 

「国際化」という言葉を聞いて何をイメージするかはその人の自由です。

わたしにとっては「国際化」とは「自分が向き合うその人自身を見て、接すること」とその向き合う対象の拡張です。

 

わたしは中高6年間を良くも悪くも世界の縮図みたいな学校で過ごしてきました。

(いや本当に良くも悪くも階級社会であり、格差社会でありetc…リアル「もしも世界が100人の村だったら」です。自分の出身校、好きでもあり嫌いでもあります。またその話は追々…)

その学校は「外国籍」、「帰国子女」、「日本国籍」の3区分に受験枠が分かれています。なので1年目の「どの枠で受験した?」、「何人?」、「どこの国に住んでたの?」という言葉は挨拶のようなものです。はじめのうち、この言葉はかなりの効力を持つのですが段々と薄れ6年目になると、もはやどうでもいいことになるんですよね。(わたしもその括りにこだわっていた時期もあるのですが、今思い出すと本当馬鹿ばかしいです。笑)

 

その質問に飽きたという部分もありますが、その子と一緒に過ごすうちにそんなことにはなんの意味もなく、友情には微塵も関係ないことに気がついてきます。つまりは「どこの受験枠か」だとか「何人か」はどれもただその人に付随している記号でしかないのです。わたしは記号と会話をしているのではなく、その人と会話しています。

 

ちなみにわたしは「帰国子女」の枠でその学校に入りました。これは知っている人は知っているし、知らない人は知らない程度のことです。別に声を大にして言うことでもないので必要な場面でしかそう名乗らないし、尋ねられたら「そうだよ」と答えるだけです。わたしにとって親の仕事の都合で海外に住んでいたことは「今は関西にいるけど、小さい頃は関東に住んでいたよ」と全く同じレベルのことなのです。(ここに関東を選んだ理由は特にないです。笑)

 

「帰国子女」はわたしを表すただの記号の一つだけれども、わたしのなかで海外生活は今の価値観の根っことして確実に存在しているので、そこをなかったことにすることは難しいです。けれどもただの記号であることにあまり意味を見出してほしくないと思います。なんというか、「帰国子女」という記号に重きをおいてあまり話をしたくないのです。「こじまは◯について△と考えている」というのは良いのですが「こじまは帰国子女だから◯について△と考えている」みたいな収束のつけ方をしないでほしいのです。

 

今の『「帰国子女」にあまり意味を持たせないで』は人種や肌の色、性別、使う言葉に宗教、思考など数え切れないほどの文脈に当てはまるとわたしは思います。

男友達に「私服校やったからスカート履いて、学校行ったことあるんよー」と話の中で言われた時に「へぇー、そうなんや。着る服考えるのは面倒やけどいいなぁ、私服校。カーディガンとかでも登校できるし。うちの学校はカーディガンで登校できんくてさー」「せやろー」ともぐもぐお昼を食べながら呑気に会話をするのもわたしの中では同じです。(当時、一瞬びっくりはしました。でもそれだけです。進路が違ってからも彼とは定期的に会う仲です。)

 

記号は記号、その人はその人として話をすることができるように訓練していく過程で「『世の中いろんな人がいるし、あなたもいろんなことを知って、受け入れてみると見える世界が変わるかもよ?』と他人を誘ってみること」ができると、より「国際化」なのかなと感じます。

 

人間みな何かしらの記号がついています。もちろん自分に嫌なことをしてきた人にも記号がついているわけで。

「国際化」とはただ憎い相手と同じ記号がついているという理由だったり苦手だと思う記号が実は付いていたとわかったという理由で、昨日まで仲良くしていた友達をやめるのかという話でもあるかと思います。

 

それでは!

(色眼鏡で見られたり、いろんなことがすごく面倒だから、あの学校界隈の人間以外に「帰国子女」とか「スポーツなどで日本以外の国を応援する理由」をあまり言いたくないという話でもありました!ちゃんちゃん!笑)