こんにちは。こじまです。
先日の「まな板の鯉」はなんとか「水を得た魚」になりました。
その水が清水なのか泥水なのかはまだわかりませんが。笑
とにもかくにも来年度の社会的身分をゲットです。よかった。よかった。
ひと段落ついて旅にでも出たい気分ですが、片付いていない案件があるのでそっちにスイッチを入れないといけません。
もうこの案件は組織の今後を考えると、どうせ押し出されていなくなるわたしの立場からあれやこれやするのはよくないと思うのですが「首をつっこんでくれ」と頼まれたし、義理もあるのでやります。(ゆってもちゃっかり旅を計画しているのですが。何を言われようが意地でも行ってやるぞー!ここのスケジュールは譲らないぞーー!!そこまで自分を犠牲にする必要性はナッシングです!!!だって対価が釣り合わないもん!!!!)
いやぁ、こう考えるとここまでよく曲芸じみた生活送っているなと思いました。
2018年上半期はアルバイトをし、来年の社会的身分を手に入れるための諸々をし、学業にも向き合い、そして『たまたま運悪くこれまでの組織の負債の処理、それから破産手続きやらなんやらの代になる』どうみても貧乏くじを引いて。
サーカスでいうなら一輪車に乗りながら綱渡りをしてジャグリングして、火を吹いてぐらいですよ。(知らんけど笑)
自分で蒔いた種の回収でしかなく賞賛を求めるためにやったことでもないのですが、もう自分で自分のことをわしゃわしゃと撫でててあげたいです。(わたし、がんばってるよー。わたし偉いよー)
ここで貧乏くじを引いた諸々に関しては自分の責任も少なからずあるので、そこを放棄することはこじまのポリシーに反するからやっています。それに関しては他人に自分と同じように「投げ出さないこと」を要求することはしないようにしています。ですが、やっぱりわたしも人間なのでカチンときちゃう時はありますよね。
わたしは戦略的撤退ではなく、逃げ出すことを選択するとツケが後で回ってくると考えるので、正直どうしても「自分で決めたこと」を簡単に投げ出せる心理がわかりません。
そういう風に「自分で決めたこと」の責任の大半を他人になすり付け、散々に人のことをなじったり、文句を言い、自分のことを棚にあげて言うこと成すことはすべて自身にブーメランで返って、ちゃんちゃらおかしな論理になっているのに。そしてそれが自分の無能さや愚かさを露呈していることにどうして気がつかないのでしょうか。
誰しもレストランへ行けば、食べたいものを注文すればいいと思います。
そのときはお腹が空いていてたくさん食べれると思っていても、それは思い違いで食事の最中にお腹がいっぱいになることもあります。突然、お腹が痛くなることもあります。そんな理由で自分が頼んだ料理のすべてを食べきれないことは仕方のないことです。それは誰にも責める資格はありません。
ですが思っていた味と違うからというような理由で食い散らかした料理の代金を踏み倒そうとしたり、喰い逃げを企て店で騒ぎ出すことは違います。
それは料理を作った人や給仕をしている人、そのお店にいるほかの人の気持ちを踏みにじることです。
そして一悶着の後「お代は結構です」という言葉を引き出して、店をでた人はわたしには到底理解できない満足感でさぞいっぱいでしょう。きっとその後、食い散らかされた料理を片付ける人やそれを見る人の気持ちなんて想像もつかないですよね。
別に料理を残すことはいいんです。
わたしは注文したものは完食しなければという価値観ですが、それ以外の価値観もたくさんあることも重々承知しています。
ただ料理を残して立ち去りたいときに自分の行動・言動でどういったことが起こるのかを考えられる想像力と、いかに料理がおいしくなかったことを責めずに伝えられるかと探ろうとする「やさしさ」が世の中にあふれたら解決することがいっぱいある気がすると言いたいんです!
そんなこんなでわたしは『他人には優しく。ただしその見返りは求めない』をモットーにこれからも日々過ごす所存であります!うおー!
ま、別にわたしが「こうしよう」ということだけなので他人には要求しませんよ。
そう言いながらもいろんな場面で「なんで想像力を働かせないんだよ!?」とイラッときたり、わたしの「やさしさ」を無下にされてしまってしょんぼりすることも、自分が思ったより人に優しくできないこともいっぱいありますが。笑
ただレストランの例え話がどんなことを言いたいのか見当もつかず、そしてそれを知ろうともしないでゲコゲコと他人をなじり、自分が人より秀でた点のみですべての価値判断をする弱いものいじめが好きなカエルに関しては『どうぞその狭い井戸の中で一生を終えてくださいな〜!そしてアホ面下げてわたしの海に入ってくんなよ(>ω<)☆』という気分です。(顔文字は口が悪くなるのを精一杯、中和しようと思い挿入しました)
それでは!