こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

氷菓

こんにちは。こじまです。

 

6月も、2019年上半期も、気づけば過ぎようとしています。

ちなみに東京暮らしはなかなかにエンジョイしております!

 

エンジョイしているといってなんですが、このニュースを読んでなんとも言えない"もやもや"を感じました。

www3.nhk.or.jp

このニュースに関してはこじまのスタンスがはじめから偏っているので、正直なところ激おこにちかい"もやもや"なのですが、あえてネットの海で何に怒っているかとかについては言及するつもりはないです。

てか、しません。これはあくまでもブログに書こうと思ったきっかけになっただけであって、言いたいのはそこじゃないので。

 

少し前からも"ハラスメント"関連の報道のたびに感じていたことなのですが『なんでもかんでも"ハラスメント"と言えばいいだろうか…』、『報道に関するコメントが二極化してるけど重要なのはそこなのか…』とどうしても、もやっとしてしまいます。

 

わたし自身としてはこれまで問題視されていなかったことが"ハラスメント"という名前がついたことで解決に向かったこと、前に進んだことがあることを重々承知しているつもりです。そして、"ハラスメント"は今後なくなることが望ましいと思っています。

 

そのうえで感じるこの居心地の悪さは何か。

この居心地の悪さは今回だけでなく、ポリコレ棒で殴る云々かんぬんの話や相模原の事件についても感じました。

 

そして、それは"思い留まることなく外野が石を投げること"がひとつあるのではないか、というところに行き着きました。("外野"という概念が広すぎるので、説明するのが難しいのですが…)

報道は見える部分が限られてしまい、どういう背景で当事者が"ハラスメント"だと感じるまでに至ったのか、当事者・関係者それぞれの落ち度がどのように作用したのが全然見えません。

 

けれども、外野は簡単に詰って、そして石を投げるのです。

外縁に位置する人々が連帯感や共感をお互いに持つことができるようになったことはインターネットの功績です。けれども、外野の野次を詰る行為、石を投げる行為に押し上げたのも言うまでもなくインターネットです。

 

わたしも"外野"の一員です。大きい括りにおいては、みな当事者であるのですがそれと同時に、どんなに当事者に近くは行くことができたとしても当事者に共感・同情しても永遠に"外野"です。そして"加害者"だと思います。

 

特に「みなが"加害者"」だというのは相模原の事件の時には強く思いました。

犯人のしたことはとても許されることではないけれども、犯人に石を投げられることができる人は数えるほどしかいないのではないのでしょうか。

犯人が口にした犯行理由、その最初の芽のようなものは誰しも経験したものではないかと直感的に感じました。ある意味で犯人は"社会"の一つの鏡だとその時、思いました。

 

「犯人やばいよね」「許せないよね」だけじゃなくて、犯人をそこまで駆り立ててしまった"何か"にもっと目を向けなくてはいけないし、突き止めなくては明日には自分が犯人と"同じこと"をしてしまう可能性がある"社会"のままです。

 

ほかにも老後2000万円が必要かもしれないの報告を発端にして起きたデモを起こした人々に対して投げかけられた「税金泥棒」だって怖いです。

そんな発言をしたり、迎合した彼らは明日自分が税金で作られたセーフティネットに助けられるかもしれないことや、成功していると感じる自分の生活は多くの税金に支えられていることを忘れてしまった"現状"を声を大にして言えてしまう。

 

そんな"社会"の一面がこじまは、はちゃめちゃに怖いです。

 

正直、こういう自分の考えることを発信すると石を投げられそうで嫌だなと思うことはあります。

けれども、そういうことも言ってもいいかなと思えるのもまた、インターネットの世界なんですよね。難しい。笑

 

声をあげることもなく死んでしまう可能性はほんの少し下がったけれども、屈折してしまっている物事の解決は日進月歩ですね。

 

兎にも角にも簡単に寄り添うことができ、糾弾し詰ることができるからこそ、見えない部分がたくさんある。そう認識しなくてはいけないな、と強く感じました。

 

それでは!

 

今回のタイトルはとある小説です。

本編のネタバレになるので、どうしてこのタイトルなのかは書きません。

こじまはこの著者の作品はストーリーも良いし、気づきも多くて好きです。