こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

ライフプラン A to Z

こんにちは。こじまです。

 

あっという間に7月です。2020年も半分過ぎてしまいました。

本当なら来月はオリンピックを見に行っているはずだったのですが、どうなるんですかね…(返金も何もいってこないから逆に怖い)

この半年近くの引きこもり生活を通じて、こじまはいかに自分が外に行かないと死ぬタイプなのかがよくわかりました。

最近はデジタルツールの発展のおかげで家にいながら舞台やコンサート、美術作品も鑑賞できるようになりましたが、それは自分にとっては現場*1の代替にはならないと思い知りました。

 

さてさて、わたしの大好きな現場たちはこのウイルス騒動の煽りを受けて、否応なしに休業や公演中止に追い込まれました。この文章を読む人がだいたいの人がおおよそ状況は共有している気がするので詳細は割愛します。

 

www.huffingtonpost.jp

 

『「不要不急」なものは後回し』が当たり前になっていくなかで、芸術は「不要不急」としてみなされているといっても過言ではないと思います。

実際に芸術を享受する側にいるわたしの中では芸術に費やすお金の名目は遊興費ですし。けれども、その遊興費が明日のお米を買うお金になる人もたくさんいるわけで。

 

「芸術文化を後世に残すためにも」

「芸術分野で食っている人間が生活できるためにも」

といった文脈で主に芸術分野の補償を訴えているかなという所感です。

ですが、まぁ話は進んでいないわけで。

 

あくまでもこれはこじまの考えなのですが、政策を決める側の人間と芸術に近い側の人間では"文化"というものが全くことなるものとして捉えられている気がします。だからこそ、永遠に議論が並行線なのかなと。

 

例えてみるならこんな感じです。

 

政策側にとっての"芸術文化"⇒チェスの駒

芸術文化に近い側にとっての"芸術文化"⇒チェスというゲームの概念そのもの

 

もうこれぐらいの認識の隔たりがあるんじゃないかと思います。

政策側にとってチェスというゲームは経済や外交というもので"芸術文化"はそのゲームのなかの駒の一つのナイトみたいな感覚なので、たとえ駒を落としてもゲームは終わっていないしほかの駒で戦えばいい。みたいな。

けれども"芸術文化"に近い側にとってはチェスというゲームの概念が崩壊しようとしているのに「いやいや何言ってんの!?駒が生きるか死ぬみたいな話じゃないよ!?」みたいな。

 

うまく文章で説明できているかはわかりませんが、こじまはこんな感じに一連の流れで感じるズレを捉えています。

 

わたし個人としては"芸術文化"は月並みな表現ですが「なくてはならないもの」だと思います。それは"芸術文化"は人の数だけの"真実"を考えることができるからです。

 

芸術作品として存在しているもの、つまりは一つの作品は唯一無二の"事実"です。そこにどんな価値を見出すか、どんな想いを感じるかは人によって異なりますが、そこにあるのは確かに"真実"です。

人の数だけの"真実"があり、それぞれの"真実"について考えることはどういうことなのかができる空間というか空気感というものは、学校のテストみたいな正解・不正解のある世界ではできないことかなって思います。別に正解・不正解を決めることが間違っていることではなく、それぞれの"真実"を考えないことは、解答者の属性や背景は変化しているのにその正解は永遠にアップデートされないままなのは最大公約数の幸福を追求するうえでもズレが生じてくるという意味です。

(というか、歴史という学術領域もこの"事実"と"真実"の関係に似ていると思う今日この頃です。笑)

 

自分のなかの正解のアップデートの実例としては先日、ちょっと前に流行した(?)Official髭男ismの『Pretender』という曲の解釈がわたしとこじま母では全く違っていたことですかね。


Official髭男dism - Pretender[Official Video]

わたしは「振られる」曲だと思っていて、こじま母は「振る」曲というふうに解釈の不一致が。もうこれはわたしにとっては目から鱗でした。笑

 

あとは<音楽だけ聞いていたとき>、<はじめてMVを観たとき>、<もう一度MVを観たとき>、<解釈の不一致を知ったとき>はそれぞれ抱く感情が違うんです。MVの登場人物たちの感情や「こいつが本命かな」の描写への印象がもう毎回変わるんですよ。あー、もうわけわからん。(楽しい)

 

いや、もうこれは「なるほど!1+1=2なのか!」を知る感動とは全く違うんですよ!

「うわ!!ここからだと晴れてるけど、外では実は雨降ってた!なんなん、この天気!?笑」みたいな感覚の感動なんですよ!(これははたして文字で伝わるんか…)

 

音楽という"事実"を作った人間、MVという"事実"を撮影した人間に伝えたい"真実"(≒正解)がありますが、必ずしも受け手がたどり着くかもわかりません。しかもその"真実"を確かめたから何になるというのだ。

 

ご飯がいきなりおいしくなるわけでもないし、銀行の預金残高が倍に増えるわけでもない。

けれども自分が正解だと思っていた"真実"以外にも"真実"があることがわかると、キャパオーバーになりそうな精神に5cmくらい余裕ができるんですよ。

 

「いや、別にこの方法じゃなくても生きていけるわ」みたいな。

 

もっと自分にとっての息のしやすい"ここじゃないどこか"や"モノの見方"があること教えてくれるのが、こじまにとっての"芸術文化"なんです。

自分の中でのライフプランはAからZまであっていいんですよ!もちろんそれ以上でも!笑

 

そもそも"芸術文化"って点じゃないんですよ。音楽も美術も、デジタルもアナログも、古いも新しいも、ハイもローも全部全部繋がっているんです。

だから「芸術なんてなくても死なない」みたいに軽んじて欲しくないとこじまは思います。今自分がいる社会・空間・場所もたくさんの人の"ここじゃないどこか"を考えて、それが積み重なった結果、生まれたものなので大切にしてもらいたいです。

 

なんだか後半は謎なテンションで駆け抜けてきましたが、良しとします。笑

 

それでは!

 

 

(あ、前述の全部繋がっているという感覚は『知りすぎていた男』を観て『交渉人:真下正義』が観たくなったり、ゴッホみて日本画とか浮世絵がみたくなるみたいな感じです)

 

 

 

*1:コンサートや舞台などのイベントが実際に行われる会場のこと。界隈特有の言い方だと最近知りました。笑