こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

外野のA

こんにちは。こじまです。

 

毎日くもりか雨ばっかりでやる気がねこそぎ持ってかれてしまいます。

楽しいことを考えていきたいと思います!ただ今回の話もどっちかというと楽しくない話題なのに言うかって感じですが!笑

 

外野の人間が発言をしたり、批判したりすると「いやいや、お前は外野の人間じゃん」と一蹴されることってないですか。まぁ、当事者が1番最前線にいて、物事の是か否が人生の行末に大きく関わっているのは明らかなんで、それでいいのかなと思うことがたびたびあります。(たしかに外野が口とか手を出してくると鬱陶しいこともよくわかる)

 

なんか自分はいろんなことに中途半端に当事者だなってよく感じます。

この前に書いた芸術文化についても、ジェンダーのこととか。自分が渦中にいることが疲れることもあって、むしろ自分が絶対に当事者だと言い切れるモノってたぶん、あまりないです。

そんななかSNSをはじめとしたデジタルツールが発展して、外野の人間がとやかく言いやすくなった世の中でどういうスタンスだったり、どういう想いで生きていけばいいかなとたびたび思います。

 問題や事件の当事者はよく描かれるけど、その問題の外野にいる人間の描写ってわたしの知る限り見たことない気がします。

そして、外野だけど考えることはたくさんあるっていう厄介な性格の人間が自分です。笑

 

その最たる事例が「自分の出身地は"橋のない川"がある街だということ」です。

こじまの出身地は確か全国でみてもそうした地域が多い部類に入ります。

 

自分の街はそういう街だって教えられて、でも自分は問題の当事者ではないからどういう立ち位置にいればいいのかなって。

けれども自分はそこに住んでいるあっち側の人間でもないし、自分のルーツに関係ないし、そのことについて自分を他人から貶められたこともない。だからこそなのか「うーむ」と思ってばかりです。

  

最近はあんまり気にしてない、というかよくそのことを知らない人も街に多く入ってきているので正直うやむやになってる感はあります。

きっと大人になってからこの街に来た場合だと、きっとおしゃんなイメージばかりでてくる気がします。

 

今でもそのことを勉強する機会があるのかは知らないけれど、「街のあっち側の人間とこっち側の人間は違う人間であるのが当然だったこと」をわたしは少なくとも知っている。

自分が主に生まれ育った街はそういう街だと知っているし、そうした地域がまた別の問題の根っこになっていることも知っている。

けれども、わたしは完全なるあっち側の人間ではないから「それはいけないこと!」と声高々に言うことがなんだか偽善っぽくてどうしたらいいのだろうと思ってばかりいます。

当事者でも完全なる外野の人間でもない<とある住民A>でしかないので、何が自分にいえるんだろうとよく悶々しています。

 

悶々しては「考えることが大事なのかな」というところにいつも落ち着いています。

誰か何かいい考えがあれば教えてください。笑

 

わたしは"あっち側"と"こっち側"の話は誰でも知っていることだとつい最近まで思っていました。意外と街をでてみるとそうでもないことを知って驚きでした。

 

覚えているのもしんどいけど、忘れることもまたしんどいよな〜って感じです。

さて、鬱々していても仕方ないので気分転換に録画した『魔改造の夜』を観ようかと思います。笑

 

www6.nhk.or.jp

 

それでは!