こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

私の頭の中の迷走

こんにちは。こじまです。

 

ただいま。東京です。

けれども雨ばっかりで研究室に放り込んだ荷物をいくつか回収できていないのが悲しいです。笑

最近はもっぱら自分の部屋でごそごそしたり、バイトしたりという感じの日々を送っています。

そんななかでJSTORなんかの論文サイトにめちゃくちゃお世話になっているのですが、毎度毎度「世の中は便利になったな〜」としみじみ思います。

実家にいるときはリモートワークするこじま父と文字通り四六時中、家にいたりしたときもHang Outなんかに対して「おお〜文明の利器〜」とはしゃいでました。というか、こじま父と元からいろんな話をよく話すけど、自粛期間@実家ではなんかE・H・カーの『歴史とは』の話をしたり、ヒッチコックの話したことなどを、しゃべり相手がいなくなってから「あの時間、ほんま謎やな…」と改めて感じます。(まぁ、こじま家自体がズレているのは今に始まったことではない)

 

それはさておき、本当に「やっぱ島根にパソコンなんてあるわけないじゃん!」*1の時代から四半世紀もしないうちにパソコンはおろかスマホが時代を席巻しているなと。

このブログだってそうなのですが、<デジタル>がない日なんてもはや存在していない気がします。

そしてかく言う自分も扱う史料の大半をデジタルでみている状況なのですが、<デジタル>って[ここに在るようで無い][ここに無いようで在る]の微妙なラインにある気がします。

 

アナログな文献や新聞記事を<デジタル>に置き換えたとして、オリジナルの<アナログ>が消失してしまった場合に<デジタル>はオリジナルになれるのか。

そもそもオリジナルが<デジタル>しかない場合、目の前にオリジナルが存在している確証がそれを目にしている今現時点の感覚でしか<デジタル>があることを観測できないのではないのか。そんなことを考えたりしています。(暇では無い)

 

文学研究の場合、読み手側に原典が手元にないと説明しづらいことが多いとおもうのですが、例えばゲームのシナリオとかを扱う場合ってどうすればいいんですかね。

コンシューマー版であってもハード機器が手に入らなければ<物語>を読むことが不可能になりますし、ましてやソーシャルゲームなんて自分の手元には厳密にいえば[無いもの]ですし。

 

そもそもの話なのですが、作品からその時代の様相や思想、社会情勢を考える研究としての題材にそうした作品を扱うことも妥当だとわたしは思うのですが、どうなんですかね。

 

気分転換にゲーム作品やアニメ作品といったいわゆるを扱った研究はないかな〜といろいろ論文を探してみるのですが、そもそもあんまり論文がヒットしないのでしょんぼりしています。(知っている限りでは斎藤環先生しか知らないので、どなたか知っている人がいれば教えてください)

 

それこそ『週刊少年ジャンプ』の作品を発刊からずーっと追いかけるのも、その時代の"かっこいい"を捉えるうえでありかなって思っているのですが、ダメですかね。笑

ゲームシナリオとかは"高尚"じゃないから文学かどうかってとこですよね。

 

個人的には前回書いたことのある『あんさんぶるスターズ!!』とか今、ちまちまハマっている『魔法使いの約束』といったソーシャルゲームって、とても<Social>なものな気がして研究できたらおもしろいな〜って思うのです。あとはkey作品なんかもアリなんじゃないのか…

 

けれども、結局のところ自分が興味の根底にあるのは<選ばれるもの>と<選ばれないもの>、<選ぶ>と<選ばない>という視点なのだなと、この文章を書きながら思いました。

 

そして、改めてここに文章をまとめるのってすごい気分転換になるなと認識しました。ここ最近ずっとなんかこう掠っているけど、自分のドンピシャの史料や「これだーーー!」っていう文献が見つからなくて手を拱いているので、思考が余計な方向にいきがちなもので。笑

 

実家と違って喧々諤々と毎日のようにしゃべる相手がいるわけではないので、発散しきれないよー!

 

うわー!作業に戻りますー!

 

それでは!

 

 

 

*1:島根にパソコンなんてあるわけないじゃん!」は『デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム!』をみてください。ちなみに8月1日に観るとより一層、作品を楽しめます。あと、本当に第一作目の20分しかない映画『デジモンアドベンチャー』は全世界にみて欲しいです。