こんにちは。こじまです。
バイトする・作業する・家事する・寝るの日常サイクルの中、ぽちぽちと自分をオタクにした作品を並べ立てる自己満足記事を書いています。
そんななかで思うのは、自分が主に育った場所はそうした"文化"にお金をかけることに意義を見出す環境だったということを身に染みて感じています。
だから自分にとって生活に必要なお金以外を"文化"に流し込むことに全く抵抗がありませんでした。けれどもそれって結局、明日のお米を買うお金があるからなんですよね。
そういう環境じゃなかったら、また違ったことを考えていただろうなと思いました。
「結局、芸術は嗜好品だからね」
これは実家にいるときに公演中止になった演劇などにお金が拠出されないことをニュースを見ながら、わたしがぼやいていた時にこじま父にさらっと言われた言葉です。
自分は嗜好品という非日常ためにお金を注ぎ込むことを是とする環境に育ったけれども、何を良しとするかはその人の背景によってそりゃ違うよなと思いました。
あんまり主語を大きくすることは好まないのですが、これを読んでいる人の考えるものを当てはめて欲しいのと、自分のなかでの変数として扱いたいので、先述の芸術の部分をここからは便宜上"文化"と書きますね。
いや確かに<"文化"は嗜好品>っていうのは、それはそうなんですけどね。
"文化"を味わっても、お腹はいっぱいにならないし手元に何が残るかって言われても「人によって違う」としか言えないです。
明日の生活費の心配をしないでいいときに味わうものなのはよくわかっています。
実際にわたしもバイト代に余裕があるときしか投資できないです。
そうした側面もわかっているつもりなので、"文化"にお金を優先しないという考えを否定しないし、そうした考えに至るまでの背景に良いも悪いもないと思っています。(あくまでもわかっているつもり)
けれども、わたしには都合のいいときに「COOL JAPAN」とか「アート思考」だとかで"文化"を持て囃しておきながら、社会保障が足りないとか感染防止だとかで掌返しのように冷遇されることが釈然としません。
なぜなのでしょうか。
うんうんと唸ってみると「"文化"は嗜好品なんだから優先するな」という真実を押し付けられている気分になるからなんじゃないかという着地点にひとまず落ち着きました。
たしかに<"文化"が嗜好品であること>は唯一無二の事実として覆らないと思います。
けれども<"文化"が嗜好品であること>という唯一無二の事実から人が考えて、感じたものは真実として人の数だけ存在いています。そして、それが当然だと思います。
わたしは<"文化"が嗜好品であること>には同意します。
"文化"が嗜好品か否かや、生活必需品かどうかということよりも嗜好品をたしなむことができない空気感やそうした余裕を作ることのできない社会の仕組みの方がわたしとしては議論したり考えていくほうがいいなって気がします。
これらは傷口というよりは病原菌であって、つまりは問題の根源的な部分なので、目に見える形として一朝一夕で解決しないのが難しいところですよね。
その解決には他者に寛容になることだったり、共通の問題意識を持って目的に向かって足並みを揃えることが求められます。
そうしたなかで、<足並みを揃えること>がいつのまにか<真実を押し付けること>になっているのにもわたしは腹が立つんだと思います。
<足並みを揃えること>と<真実を押し付けること>は似て非なることではないのでしょうか。「じゃあ、どこが違うんだ」と言われると難しいんですけどね。
例えるなら、<足並みを揃えること>はムカデ競争だけれども、<真実を押し付けること>は二人三脚みたいな。笑
やってることはそれぞれの足首を繋いで早くゴールを目指す競技であってやってる内容ほぼ一緒ですなのですが、
<足並みをそろえること>=ムカデ競争:足を繋いでる人がみんな同じ歩調になるように、各々が調整しあわないと前にも後ろにも進めない
<真実を押し付けること>=二人三脚:どちらか片方が早く走ればもう片方は地面を引きずられたとしても進む
といったような微妙な違いみたいな。(はたして伝わるのか)
真実を押し付けられるとかなり苦痛に感じることもあるので、できればもっと違う形で自身の真実を他人に伝えていって欲しいなって思います。まぁ、これは自戒もこめて。
それこそ<"文化"を享受することで、自分の視野が変わる>ことは事実だけれども、それがプラスとして捉えるのか、マイナスとして捉えるのかはわたし自身ですらその時々ですから。
視野が広がることは可能性も拡げてくれるけれども、知らなくていいこと・考えなくていいことに出会って苦しむことともある意味同義じゃないですかね。
傷つきたくないから見ない・聞かない・知らないの選択肢をとることは何一つ間違っていないです。
ただ、骨が折れて強くなっていくように「もっと強く」「もっと上手く」「もっと先へ」を願うなら傷つくことは避けられないんじゃないんですかね。それも何を"幸せ"とするかの定義によって違うので、これ以上は延々続く議論をするのは一旦やめましょう。(これは終わらん)
くどくど書いてきましたが、1人で悶々したのでこうして壁打ちに書いてるわけあります。
ようは、こじまは事実と真実をごっちゃにして話されるのが嫌いなんですね。きっと。笑
それでは!