こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

まな板の鯉は淡水魚の夢を見るか?

こんにちは。こじまです。

 

タイトルは「まな板の鯉」が言いたいがために考えました。笑

(淡水魚も三文字でいい感じです。自画自賛)

毎度毎度言っていることですが、9月がもう半分が終わってしまいます。早いです。ああっ…2018年がもうすぐ2桁台に…

 

ここ最近のこじま的ビッグニュースは『旅行に行くつもりだった弟が関西空港ダンケルク『中高時代の友達の結婚』です。

 

弟の関空撤退作戦についてはこじま家ではニュースを見るたびに「わぁ…ダンケルクだ…本当にダンケルクだ…」と家族でつぶやいていました。

孤立してから次の日の夜に帰ってきたのですが、大変だったみたいです。特に食べものがなくて大変だったり、作戦を練らない友達に弟はプンプンして帰ってきました。

 

撤退作戦に並ぶニュースは友達の結婚・出産です。中高時代の友達が結婚したりする時期になったことが少し不思議な感じです。

気持ちは中高時代とは変わらないのに、どんどん環境は変化していくのですね。ちょっと置いてけぼり感が。笑

でも、みんな楽しそうだし元気そうで何よりです。こじまも嬉しいし、楽しいです。

(またこれについてはいつかまとめよう。そういってまとめないかもしれない)

 

とにもかくにも、こんな取り留めのない話をするほど今のこじまは「まな板の鯉」状態で気がそぞろです。

次のことを考えるにもふわふわなため、いっそ「やりたいことやってやるー!」という気分です。(えっ、いつもやりたいことをやってるって?)

 

まずは寝て、寝て、ひたすらに寝て。笑

それから久々にPS4を起動して一人細々とモンスターを狩るなど諸々のゲームしたり。アニメや映画、ドラマ観たり。

チケッティングしたり、ネットサーフィンしたり。

写真整理したり。絵を描いたり。買い物したり。

間にちょこちょこアルバイトを挟んだり。

 

なんて穏やかなのですか…

ただのまな板の鯉なので、目に見える形でこれからのことが決まったわけではないですが、何だかいろいろと「やらなきゃ!」「しなきゃ!」から解放されている気分です。

むしろ「今までどれだけそれに注力してきたの…」と思いました。

これまでもやりたいことしか、やってきてはないですがいろんなことを「むんっ!」と力んで臨んでいたんだなと痛感しています。

 

たまには、ほげーっと過ごすことは大切ですね。

ほげーっとすることでまた頑張れそうです。

 

さてさて。

そろそろお腹がすいてきたので、掃除機をかけたらお昼でも食べましょうか。

それからトリップアドバイザーをぼやぼやっとみたりして、「旅行いきたーい」という気分に浸ろうと思います。

 

それでは!

 

 

雨の日は会えない、晴れの日は"僕"を想う

こんにちは。こじまです。

 

8月はずっと忙しく、自分もシステムエラーを起こしたりで書き溜めた文章を推敲する時間もないまま31日がやってきました。

正直こういうことしている場合ではないのですが、どうしても8月は自分の誕生月なので1つでもいいから更新したくてこうして文章を書いています。

 

このたびの誕生日をもって、こじまは干支2周目に入りました。

星座占いだと獅子座だったり乙女座だったりする不思議な日です。

ちなみに届出上の誕生日は3分しか過ごしていないので、わたしのなかで誕生日は2日あると勝手に解釈しています。笑

 

そんなことはさておき、干支2周目というある意味で節目の一つとなりました。

ここまでの自分の人生を振り返って、こういう風になりたいなという「今」のわたしの考えをまとめたいなと。

 

突然ですが、わたしはこのパツキンくんの顔になりたいです。

 

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結構真面目にいっています。笑

けれどもそれは顔の造形云々ではないです。どういうことかは今から説明します。

(どうでもいいですが、この人は暗い髪色のほうが個人的には好きです。それにしてもジャケットの主張がすごい)

 

今からする話はわかる人は分かる、わからない人は分からない話です。別にわからなくても死にません。笑

 

わたしは人の顔にはいろんなものが表れるとおもっています。

「二十歳までは親の顔、二十歳からは自分の顔」です。

うむ、ココ・シャネルも似たようなこといってました。

 

なんというか顔に人生の色がでるんです。感情の出し方とか、いろいろです。

人の印象はある程度は服装なんかでごまかせる部分も多いですが、顔は化粧をしてもその人となりが1番にじみ出るパーツだと。

 

アルバイトをしながら生徒の顔をみて「この子、話わかってないけど「わかります」って言ってるな」とか喫茶店のアルバイトでもお客さんをみて「のんびりしていきたい人だな」とか「優しそうだな」とか人の見た目からわかることが多いです。そして大抵はずれない。(そしてそれを仕事に活かす。笑)

だから意地悪い人はだんだん、いじわるそーうな顔になるんですよ。笑

 

このパツキンくんからわたしが感じるのは『寛大さ』『努力』、そして『「求められる姿」を「なりたい姿」に比較的ストレスなく昇華していること』です。

 

インタビューやらなんやらでは

「僕の苦労は僕にだけ、わかればいい」

「一つ我慢すれば二つ得て、二つ我慢すれば四つを得る。その時がくるまで僕は僕がすべきことをただ尽くすだけ」

「僕は僕の幸せのために行動する。そのために人を笑顔にして、その笑顔が僕を笑顔にするんだ」

なんて発言しています。

 

基本的にインタビューなんかは模範解答を事前に準備しているものだという考えなのですが、さすがにこれは1mmもこんなことを考えていない人間は発言できないなと思いました。

 

自分もそういう人間になりたいなと思いました。

それはわたしの努力次第ですね。

 

そしてパツキンくんが歌ったこのソロ曲、『Epiphany』(動画は字幕設定オンにしたら、英語でます)

この世界で"僕"は僕が愛すべき存在。

光り輝く"僕"を、大切な"僕"の魂を

やっと気がついたんだ。

僕は"僕"を愛そう。

完璧ではないけれど、とても美しいんだ。

"僕"は僕が愛すべき、ただ一人の"僕"

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BTS (방탄소년단) LOVE YOURSELF 結 Answer 'Epiphany' Comeback Trailer


果たしてわたしの思考がこの製作陣に寄っているのでしょうか、それとも世界に訴えていることがわたしの思考なのでしょうか。笑

 

わたしの幸せの器には、わたしにしか幸せという水を注げない。

そしてその器は穴が開いていて、決して満たされる瞬間がくることもない。

けれども、たとえ水が満たされることがなくてもわたしが水を注ぐことをやめる理由にはならない。なぜなら、すべてのことには意味があり満たされないことにも意味がある。

 

なんて、わたしは思います。

(そう思うと10歳ほど離れていた、はとこよりも気づけば5歳も年上になったことも不思議なものです。)

 

干支3周目にむけて世界一嫌いな自分のことを、もう少し好きになってあげようかな。

 

そんなことを考える干支2周目の始まりでした!

 

それでは!

 

 

余談ですが この「LOVE YOURESELF」シリーズの集大成である「結:Answer」はトラックリストの構成からも作品になっていてグッときます。よかったらいろいろ聞いてみてください。

 

すべてが記号になる

こんにちは。こじまです。

 

ちょっと前まで7月は一桁台の日付だったのに、気づいたら8月が迫っています。おかしいですね、わたしの周りの時空が歪んでいるのかもしれません。

最近言われておもしろかった言葉No.1の「人生何回目なん?4回目くらい?」と言われたのも時空が歪んでいるせいで、あながち間違いではないのかも。笑

 

それはさておき。ひょんなことから「国際化」とは何かという話になったので、息抜きに眠らせていたこの記事を書き上げました。(ああっ、先にやるべきことをやりましょうと石を投げないでっ…!笑)

 

巷では「国際化」を持ち出すことが最近はすごく多いと思います。わたしはその言葉が溢れかえる一方で昨今の「国際化」はちゃんちゃらおかしいなと思うことが多いのが現実です。

わたしの思うこの言葉の広く持たれているイメージは大学が売りにするところだと留学だったり語学力に結び付けられている気がします。(わたしの通う大学然り)

個人だとFacebookなんかのSNSで自己発信を他国の人にするとか、外国人の友達がいるとか、英語がしゃべれることだったりというあたりですかね。

別にそれでもいいと思うの部分もありますが、そこで終わるとただの量産型自己満足にすぎないのではないかと。

 

「国際化」という言葉を聞いて何をイメージするかはその人の自由です。

わたしにとっては「国際化」とは「自分が向き合うその人自身を見て、接すること」とその向き合う対象の拡張です。

 

わたしは中高6年間を良くも悪くも世界の縮図みたいな学校で過ごしてきました。

(いや本当に良くも悪くも階級社会であり、格差社会でありetc…リアル「もしも世界が100人の村だったら」です。自分の出身校、好きでもあり嫌いでもあります。またその話は追々…)

その学校は「外国籍」、「帰国子女」、「日本国籍」の3区分に受験枠が分かれています。なので1年目の「どの枠で受験した?」、「何人?」、「どこの国に住んでたの?」という言葉は挨拶のようなものです。はじめのうち、この言葉はかなりの効力を持つのですが段々と薄れ6年目になると、もはやどうでもいいことになるんですよね。(わたしもその括りにこだわっていた時期もあるのですが、今思い出すと本当馬鹿ばかしいです。笑)

 

その質問に飽きたという部分もありますが、その子と一緒に過ごすうちにそんなことにはなんの意味もなく、友情には微塵も関係ないことに気がついてきます。つまりは「どこの受験枠か」だとか「何人か」はどれもただその人に付随している記号でしかないのです。わたしは記号と会話をしているのではなく、その人と会話しています。

 

ちなみにわたしは「帰国子女」の枠でその学校に入りました。これは知っている人は知っているし、知らない人は知らない程度のことです。別に声を大にして言うことでもないので必要な場面でしかそう名乗らないし、尋ねられたら「そうだよ」と答えるだけです。わたしにとって親の仕事の都合で海外に住んでいたことは「今は関西にいるけど、小さい頃は関東に住んでいたよ」と全く同じレベルのことなのです。(ここに関東を選んだ理由は特にないです。笑)

 

「帰国子女」はわたしを表すただの記号の一つだけれども、わたしのなかで海外生活は今の価値観の根っことして確実に存在しているので、そこをなかったことにすることは難しいです。けれどもただの記号であることにあまり意味を見出してほしくないと思います。なんというか、「帰国子女」という記号に重きをおいてあまり話をしたくないのです。「こじまは◯について△と考えている」というのは良いのですが「こじまは帰国子女だから◯について△と考えている」みたいな収束のつけ方をしないでほしいのです。

 

今の『「帰国子女」にあまり意味を持たせないで』は人種や肌の色、性別、使う言葉に宗教、思考など数え切れないほどの文脈に当てはまるとわたしは思います。

男友達に「私服校やったからスカート履いて、学校行ったことあるんよー」と話の中で言われた時に「へぇー、そうなんや。着る服考えるのは面倒やけどいいなぁ、私服校。カーディガンとかでも登校できるし。うちの学校はカーディガンで登校できんくてさー」「せやろー」ともぐもぐお昼を食べながら呑気に会話をするのもわたしの中では同じです。(当時、一瞬びっくりはしました。でもそれだけです。進路が違ってからも彼とは定期的に会う仲です。)

 

記号は記号、その人はその人として話をすることができるように訓練していく過程で「『世の中いろんな人がいるし、あなたもいろんなことを知って、受け入れてみると見える世界が変わるかもよ?』と他人を誘ってみること」ができると、より「国際化」なのかなと感じます。

 

人間みな何かしらの記号がついています。もちろん自分に嫌なことをしてきた人にも記号がついているわけで。

「国際化」とはただ憎い相手と同じ記号がついているという理由だったり苦手だと思う記号が実は付いていたとわかったという理由で、昨日まで仲良くしていた友達をやめるのかという話でもあるかと思います。

 

それでは!

(色眼鏡で見られたり、いろんなことがすごく面倒だから、あの学校界隈の人間以外に「帰国子女」とか「スポーツなどで日本以外の国を応援する理由」をあまり言いたくないという話でもありました!ちゃんちゃん!笑)

 

悩むよりGO GO

 こんにちは。こじまです。

 

あれ書きたい、これ書きたいを巡らせていたら、なんだか知らないうちに7月です。いったい6月は一体どこへ行ってしまったのですか…

 

最近ぼやぼやとモノを考える時間が少しできたので、ふと去年のことを思い出していました。ちょうど去年の今ごろはロサンゼルスにいたなぁと。1年とは早いものです。

(ちなみにトランジットがホノルルで時間もあったのでワイキキビーチ眺めたり、Mac Book諸々担いでダイアモンドヘッド登ったりしてハワイを満喫(?)したのもいい思い出です)

 

そもそもどうしてそんな時期にロサンゼルスにいたかというと、Anime EXPOに参加するためでした。毎年7月の1日から4日にかけて開催されるアニメや漫画関連のイベントです。いわゆるアメリカ版コミケみたいなものです。

 

なんで行こうと思ったかというとただ単におもしろそうだと思ったからです。

それだけです。

 

以前のおはなしにも書いたような気がするのですが、基本的におもしろいことをして生きていきたいタイプなので、ほいっと「ロサンゼルス行きたい!Anime EXPO行きたい!」と言い出しました。本当に清々しいほどに安直。

(その安直なわたしの思いつきに付き合ってくれた方々、本当にありがとうございました)

 

こういう発想で生きているので、すぐ自分の預金残高と戦うことになるのですが後悔することはほとんどないです。固定費以外は思ったことにやりたいこと、欲しいもののためにお金は稼いでいるので!(まぁ1番いいのは「やりたいことでお金が稼げること」ですね。けれども難しいです。笑)

 

そういうおもしろそうだと思ったときの直感はスーパーで「買ってくれ!」と叫んでいるお肉に遭遇したみたいなかんじです。そういうお肉は本当においしいことが多いんです。笑

そういう感覚って今までの自分の経験や知識が折り重なってできているものだとわたしは思います。つまりは自分の肌感にあうものを選んでいる確率も高いわけです。だからこそ自分にとってそれはすごく実りあるものだったり、過程が価値のあるものになる可能性が高いのかなと。

実際にロサンゼルスに行ったこと・行くまでのことはわたしにとってすごくいいものになったので、こうして1年後に回想しているわけなのです。笑

  

そういう感覚を信じていくことがいわゆる「自分らしく生きる」ということなのかもしれませんね。この感覚はきっと今よりも"貧しく"なっていくと鈍ってしまうのでしょう。『貧すれば鈍する』ですから。わたしにとってこの感覚は大切にしているので、そういう意味で"貧しく"はなりたくないなと。笑

 

しかしながら世の中"貧する"確率はどんどん上がっていっている気はします。好きで"貧する"人なんてそういないと思いますが、なりたくなくてもなってしまうことがある世界です。世知辛いですね。

 

そして"安定"し"富める"とされるレールから外れた生き方は感知されることもないまま「幸せではなかった」という烙印を押されてしまうことも少なくないと思います。

 

ここで『オメラスから歩み去る人々』という作品を紹介します。オメラスという場所は"完璧な理想郷"です。けれどもそこはとある犠牲によってすべての"幸せ"が保証されている"素晴らしい"世界です。誰もがその犠牲のうえに"幸せ"があることを知っています。そして、その街から去っていく人がいるという物語です。(この作者の作品は大概しんどいです。『ゲド戦記』然り…詳しくは作品タイトルで検索!検索!『オメラス~』は短いのでぜひとも読んで欲しいです)

 

その物語のように今あるとされる"安定"と"富"よりも、そこから歩み去ることを選択してもまた間違いではないと思います。もちろん、いろんなことを知って考えないとただの放蕩になってしまうとは思います。笑

 

そういうわけで紆余曲折ほどもないですが、なんやかんや来年からのわたしの社会的身分はまだ決まっていません!笑

 

安直に直感を信じられる場所に行きたいがため、いろいろと考えた結果レールから外れる。

なんだか矛盾しているような、してないような。

いいんです!世の中矛盾に満ちていますから!笑

  

まぁ、とにもかくにも来年も生きているつもりです!笑

(ちょっと心配されてしまったので、水面下で動いているよという経過報告までに…)

  

それでは!

 

 余談ですが以下『So what』と『楽園』という曲のわたしのお気に入り歌詞を抜粋で紹介します。

どちらもいい歌詞(こじま基準)なので全文読んでもらえたらと思うので、また暇なときにでも検索してみてください。(訳はいろいろとあると思うのでお好みのものをみつけてください)

この180°志向の違う2曲が同じアーティストの1つのアルバムに入ってるのって、なかなかにパンチ効いてるなって思います。笑

 

 『So What』

Someone call me right one. Someone call me wrong.

けど僕は気にしないよ。君もそうしたら?  

思い通りになるものなんてなくて、隠れる場所なんてなおさらなくて。

とうの昔に賽は投げられた。ぐずぐずしてたら流されるぞ。

悩みの9割は君が作り出した想像の沼  

境界線上でピンチになったとしても、笑って騒いで風を切ろう。

時には愚かにバカみたいに走って、失敗と涙の中を進むんだ。

So what 立ち止まって悩むのはやめよう。

どうせ全部無駄だから。

 

『楽園』

そうマラソンさ、マラソン。長い人生、ゆっくり行こう。

42.195 その先には楽園が待っている。

けれども現実世界はそんな約束通りじゃない。

僕たちは走らなくちゃ。歩かなくちゃ。

信号弾を放ったのなら、君には何の目的地もない。何の展望もない。

息がつかえて苦しい時、止まってもいいじゃない。

何も理由がわからないまま走る必要はない。

夢がなくても大丈夫。少しでも幸せを感じる瞬間があるのなら。

 未来だけが夢というのなら、僕が昨日の夜ベッドで見た夢は何さ。

夢の名前が違ったっていいじゃないか。

来月ノートパソコンを買うこと。

それともただ食べて寝ること。

なんにもしないでもお金がたくさんあること。

夢が大きくて何が悪い。どんな夢を見たって

We deserve a life

何が大きかろうが小さかろうが君は君でしょ。 

 

 

 

僕と"僕"と僕の生きる道

こんにちは。こじまです。

 

ここ最近の自分のなかでのモットーは『人生は"アイドル"だ』です。

それは別に「外見がどうのこうの」とか、「ファンがいるからどうのこうの」ではなくまた違う意味で考えています。

 

まず"アイドル"は表現者という括りのなかでは最も周囲の人々から「こういう人でいてほしい」という願望を向けられる存在だと思います。なので"キャラクター"が作り出され、それに適った行動を求められます。その"キャラクター"はどこまでもついてきて。本当の"自分"はそっちのけで、社会との接点ごとにある自分において「なりたい自分」「求められる自分」の狭間で悶々とし続けなくてはいけません。

 

 またほかにも人生と"アイドル"が繋がるなと感じる部分は『舞台は自分ひとりでは決して成立しない』ということ。月並な言葉で言うなら『人生誰もが主役』です。そして『人生誰もが誰かの裏方』です。自分の努力がどこに行き着くのか。矢面にたつことは辛いけれど、ステージを突然放棄してしまうことは自分のために尽力してくれた人たちの気持ちを蔑ろにしてしまうなと。(だからといって死にたいと思うまで頑張れという話ではないです)

 

アイドルを追いかけるようになってから、ぼやぼやとそんなことを考えながら自分の糧にして生活してます。(こんなこと考えてみてるから研究対象に対する目線とか言われる)

 

まずは「なりたい自分」と「求められる自分」の話からしましょう。

アイドルが常にコンセプトを抱えているのと同じようにわたし自身も「こうありたい」というコンセプトがあって。その理想と現実の狭間にいるのが"今"のわたしです。

 

新しい曲をだすたびにファンが増えるのと同時に「この前のコンセプトのほうがよかった」、「デビューしてから時が経って変わってしまったんだね」という言葉を投げてかけられて。去っていくファンがいて。これって言葉を置き換えるだけで日常においてもありふれたことだなって感じます。その行為は誰にも咎められるものではないけれど、言われた側にはなんだか堪えるものがありますよね。

 

そうやって自分を取り巻く人々が求める役割を推し量って、役割をこなしていくなかで、ふと「あれ"わたし"って何だろう。何がしたいのだろう」と感じて自分の軸が何なのかわからなくなって思考停止してしまいます。それは自体は誰しもあることです。けれども世界はそれでも回っているので。あっという間に取り残されてしまったような気がして正直怖いです。

 

そんな思考停止から抜け出したいのなら、いつぞやのブログ記事に書いたように自分の「こうしたい」を上手に作らないといけないですね。そして周囲が求めるものとの結節点を見つけていかなくてはいけません。けれども上手に作り上げた「こうしたい」が受け入れられるかどうかはまた別問題です。変わっても変わらなくても"わたし"は"わたし"でしかないのに難しいものです。この「変わる・変わらない」の是非は『「いちご白書」をもう一度』の時代でも言ってるので、永遠の命題なのかもしれませんね。(また古い歌を…)

 

僕は無精ひげと髪をのばして、学生集会へも時々出かけた。

就職が決まって髪を切ってきたとき、もう若くないさと君に言い訳したね。

『「いちご白書」をもう一度』

 

あんまり学生運動とかの映像を見たことなかったりしたらイメージしにくいですかね。まぁ、親が年寄りなので耳学問として知っているだけでわたしもその時代を生きてないので何とも言えませんが。笑

(完全なる余談ですが米澤穂信の「氷菓」、初野晴の「初恋ソムリエ」はこのあたりの時代がイメージできた状態で読むとよりおもしろいです)

 

ちなみにこちらは曲作りに関わった人自身も"君"と"僕"を対人と捉えるだけでなく、対自我としても捉えられると言っていた曲のとある部分です。この曲、対自我として歌詞を読むとなんか対人とまた違ってしんどいです。そしてなんで鬱屈とした気分なときほど鬱々とした曲って響くんですかね。笑(「大丈夫!なるようになるさ!」系と「もう世界しんどい」系の曲を繰り返し聴いていて情緒不安定かよとツッコミたくなるこじまのプレイリスト)

 

「見慣れない」っていうんだね。君が好きだった僕に変わった僕を。

「僕じゃない」っていうんだね。君がよく知っていた昔の僕を。

「違う」って何が違うのさ。僕はもう何も見えないよ。

『FAKE LOVE』

 

喜んでもらいたくて、もっと好かれたくて自分を変えてみたけれどそれを拒否されてしまうとショックで立ち直れないですね。たとえ周りから何を言われたとしても、人は毅然とした態度を貫けるのでしょうか。周囲とのズレが辛くてその"自分"を手放したところでそれでよかったのかと悩んで。

 

まわりを頼ったとしても結局、自分でどうにか折り合いをつけるしかないですね。

誰しもやじろべえのようにゆらゆらと倒れるわけでもなく、「なりたい自分」と「求められる自分」の狭間においてどっちつかずでバランスを取っているのでしょうね。

 

なんだか「なりたい自分」と「求められる自分」の話だけで文字数がえらいことになったのでもう一つの『舞台はひとりじゃ完成しない』についてはまたいつか書こうと思います。

 

それでは!

 

 

やさしい言葉で相手を征服できないような人間は、きつい言葉でも征服できない。

こんにちは。こじまです。

 

暇人のような暇人でないような生活を送る今日この頃です。

そんなこじまの最近の楽しみのひとつは防弾少年団(BTS)の活動を追っかけることです。

 

こちらが防弾少年団(BTS)です。(1番新しいコンセプトフォトでそれなりに個人の特徴がわかるやつでなおかつ、それなりにかっこいい写真が上下ジーンズのこの写真かなという結論に至りました)

f:id:u_w_wanna-next:20180531005223j:plain©Big Hits entertainment

 

防弾少年団(BTS)には思うことがたくさんあります。7人それぞれに『かくありたい』と感じるところがあり、彼らの裏にいる多くの人たちにも感銘を受けることも多いです。歌詞や映像からいろんなことを考えます。

 

まぁ、昔は彼らに微塵も興味なかったです!むしろアイドルとか苦手だったんですけどね!こんなにハマるなんて正直びっくりです!人間変わるものです!笑(しかしながら"ハマった"といっても親には「それはただのファンの目線やないよ。研究対象への目線や」と言われるほどハマり方がズレているそうです。いや、純粋にかっこいいとも思ってますよ。はい…)

 

そんななか彼らの最新アルバムがBillboard 200やHOT100にランクインしました。それも相まっていろんな記事が出ているので「これ読もう」とほいほいしていたら、こんなことになりました。スクリーンショット撮るまではもうすこし多かったです。笑

「レビュー記事が人種差別だ!」みたいなこともあったりで、いろんな意味で盛り上がっています。(あ、1枚目のZiggoドームはまた別件だ…アムステルダム公演に行きたくて開いたやつだ…)

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暇をみつけては彼らに関する記事やインタビューを読んだり観たりしています。そのなかで特に紹介したい動画あります。とりあえずぽちぽちっと貼り付けますね。8分程度なので気楽に観れます。


BTS I Backstage at the AMAs

 

昨年アメリカであったAmerican Music Awardsにおけるインタビューです。大丈夫です。こじまでもある程度聞き取れます!笑

(上の動画に字幕がないので親切に日本語にしてくれている方の動画をば:https://youtu.be/JETqtrZrQW0)

 

まずこのインタビュアーのZachがきちんと彼らにについて調べてきていることにこの人のすごさを感じました。これまでの曲の内容やコンセプトについてだけでなく、他媒体ではあまり触れていなかったUNICEFでの活動も知ってました。(インタビューに答えている側もそれにびっくりするくらいなので、これまでのインタビューでは同時にしょうもない質問もいっぱいされてきたんだろうなと思いました)

 

動画を見ればわかると思うのですが、ここのグループにはとてつもなく知的に英語を話せるメンバーが1人います。(こじま基準です)

終始その"英語できる君"が話しているのをみて先日アートイベントで聞いた「アートに関わる人間で英語ができない人はほとんどいない。英語ができないと渡り歩けない」という言葉をひとり思い出していました。やっぱり何をするにも英語が使えると"できること"の幅は広がるものなのですね。

 

そしてこの動画の後半でZachが『このなかで英語ペラペラになりたい人はいますか?』という質問をします。そこでメンバーが口々にいろんなことを叫んで(?)、最終的に『メンバー全員頑張ってます』と英語できる君がまとめます。

 

その直後にZachは『僕はこのまま韓国語で歌詞を書き続けてほしいと思います』と口にします。わたしは「え?今の流れでそんなこと言うの?」と本当にびっくりしました。「英語ができなくてはいけない」という価値観をもっている(と思われる)彼らに対してZachはすごいことを言ってのけていると感じました。

 

そしてこう続けます。『君たちが音楽を通してしていることは世界の人々を繋いで、どこかの誰かにとっての辛いことは、ここにいる誰かもまた感じているということを気づかせてくれています。それはとても大切なことです』(ざっくり)

 

言葉が違うからこそ表現できる、伝わるものがあるというのはこういうことなのかなと思いました。ただ話はそう簡単にはいかないんですよね。それは今年のBillboard Music Awardsで彼らがパフォーマンスした曲の韓国語歌詞の一部が変わっていることに表されているのかなと。そのおはなしをするとまた長いので今度にします。

 

ちなみにBillboard Music AwardsでもZachがインタビューしています。それがこちら。これもまたいいインタビューしてるんですよ…!本当にいろんな人に観てもらいたいです。(こっちの動画は日本語字幕をつけてくれている人がいなかったので頑張ってください。大丈夫、こじまでもある程度聞き取れます[2回目])


BTS I Billboard Music Awards

 

今回のアルバムタイトルや曲の歌詞にちなんで『愛の定義とは』という質問に対して英語できる君が『英語だと”Love”と”Live”って語呂が似ていますよね。韓国語だと”Love”は"사랑" (サラng)、”People”が"사람"(サラm)なんです。似ていますよね。”Love”は”Live”であって、つまりはそういうことだと僕は思います』(またざっくり)

 

 英語できる君、すごくうまい返しだなと。

 

それでは!

 

 

魔法のコトバ

こんにちは。こじまです。

 

最近「ブログ読んでるよ」と言っていただけることが何度かありました。

独り言をわんわん言っているブログですが、読んでいただけて素直に嬉しいです。ありがとうございます。これからも壁打ちを続けようと思います。

 

そんななか最近あまりブログが更新できていないのですが、それには実は原因がありまして。

 

それはおはなしのチェック、いわゆる読み直しが全然終わっていないからなのです。

おはなしのストックはざっと20くらいあり、ほとんど書き上がっているものも結構あります。ですが『書き上げてからの読み直しをしていないものは絶対にあげない』というルールを作っているのでストックたちは更新していません。(その読み直しをする順番は完全に気分なので物事の時系列と更新日時はぐちゃぐちゃです。気にしないでください。壁打ちですから)

 

だいたい書き始めはうおーっ!と感情に任せる癖があるので、文法や話の構成がめちゃめちゃということも往々にしてあります。その修正という意味合いもあるのですが、どちらかというと自分の言葉選びを見直して「誤解をあたえる可能性は最小限か」など内容自体のチェックに重点を置いています。そして読み直しはそれこそじっくりコトコト煮込むようにある程度の時間をかけます。特に時間をあけてからすると落ち着いて自分の文章が読めるのです。

なかには読み直した結果、あまりにも吠えているので御蔵入りがほぼ確定しているものもあります。笑

 

実生活のなかでの優先順位は低くはなるのですが、この読み直しというのは壁打ちするなかでとても重要視している作業です。それは言葉のもつ力は計り知れないと考えているからです。 

 

わたしが「言葉って…!」と感じたのは小学5年生まで遡ります。

当時通っていた小学校では5年生のときの人権週間にビデオを観て作文を書くという時間がありました。そこで「父さんが泣いた日」という作品を観ました。ざっくりと内容を説明すると『家族ぐるみで仲が良かった2人の男の子がある日突然、片方をいじめだし、家族同士の付き合いもなくなってしまった』というものです。

 

そのビデオのなかで印象的なセリフに

「ハンバーグの息子はハンバーグや!」というものがあります。

これはいじめる側になった男の子Aくんが洋食屋の息子である、もう一人の男の子Bくんに泥だんごをなすりつけながら言い放った言葉でした。(記憶ちがいで細部が違ってたらごめんなさい)

 

作品の外にいる側からすると「なんのこっちゃ」というようなセリフでした。ですが、作品のなかでその言葉を言われたBくんはとてつもないショックを受けていて、ふさぎこむほどでした。

 

そのシーンを見て、わたしはふと傾倒していた『xxxHolic』という漫画のとある話を思い出します。それはとてつもなくそっくりな双子の姉妹のおはなしです。全く同じ素質を持っているのに妹は何をしても要領がいいけど、姉は何をするにも失敗ばかり。姉はそんな自分を変えたくて試行錯誤するのですが、どうやってもうまくいかない。原因は妹が口癖のように言う「お姉ちゃんは何をやってもダメなんだから」という言葉と姉自身が自分に対して「わたしは何をやってもできないんだ。妹のようにはなれないのだ」という言葉によって「自分は絶対に何も成功できない」という暗示をかけているせいだというものでした。そして姉は「こんな自分はもういやだ。自分は変わりたい」ときちんと言葉にすることで何もできなかった自分を克服しました。(この漫画オカルトちっくなのですが人生について言い得て妙な部分が多く、こじまの人生バイブルのなかの一冊です。なんちゅうもんを小学生から読んでるのかとか言わないで。かかりつけの小児科がマガジン派だったんです…)

 

言葉とはなんという力を持っているのだと思いました。言葉は人を縛る鎖にもなるし、その一方で誰かの背中を押す優しいものでもある。自分には何気ないひとことが相手に与える影響を、その言葉を使った本人が一番わからない。だからこそ言葉を使うときは考えて使わないといけない。(たしかそんなことを当時の作文に書きました。大筋は間違ってないはずです)

 

それでもって今も「言葉」は大切にしないとと思って日々生活しています。

だからこそ、たかが壁打ちブログといえども自分の書いた文章を蔑ろにはできません。議論の種になればいいですけど、喧嘩の種にはなりたくないので…

ですが書いた言葉と違って、口にした言葉は言ってしまったあと取り返しつかないので、いつも難しいなと思います。

 

まだまだ「言葉」についてお話ししたいところですが、またえらい文字数になってきそうなのでまた気が向いたときにそのおはなしを更新したいと思います。

 

 

 

 それでは!

 

 

 

ん?ところで、なんで10年ほども前のことをこんなに覚えてるかって?

それはこの作文が知らないうちにコンクールに出されていてひっそりと入選し、人生初めての表彰状が突然届き、何も知らされないまま全校集会で壇上に上がらされたというエピソード付きだからです。笑

惜しくも市の作品集に本文は載りませんでしたが、自分の何気なく思ったことを綴った作文が評価されたことと副賞としてカラーペンセットが貰えたことが嬉しくて…笑