こんにちは。こじまです。
去年の夏、一緒にフィリピンへ行ったゼミの友人のFacebookの投稿がずっと引っかかったまま、今も考えています。
”物乞いを無視すること”に対して罪を感じていた。
だから支払うチップを多めに払っていた。
物乞いたちに夢があるようには見えなかった。
その日、遊んで食べて生きることがすべてであるようにみえた。
本当はその投稿を引用して載せるのがいいと思うのですが、公開範囲を限定しているので気になったところを抜きださせてもらいました。ここからはわたしの主観しかないので、本人の伝えたかった意図はきちんと原典の投稿を見てもらったほうが絶対にいいです。ですが、”その投稿を読んでわたしはこう読み取った”というのも事実ですので、そのままわたしの思うことを書きたいと思います。
この投稿をみたとき同じ風景を見ているのに人は全然違うことを考えているのだなと改めて実感した瞬間でした。
彼と反対にわたしは物乞いに対して罪など感じなかったです。単に人が”物乞い”をしてくるとしか見てなかったです。
そして彼の投稿に対して
「なんで物乞い≒かわいそうの図式ができてるの?」
と真っ先に浮かびました。彼の投稿に”かわいそう”という言葉は一言もでてこないですが、ひしひしと”かわいそう”を感じました。
その日1日をどう過ごすことしか考えられなくて”かわいそう”
夢がないようにみえて”かわいそう”
でも、それって自分のものさしで測ったら”かわいそう”なだけじゃないのかな。”かわいそう”と思った時点で、それはただ「施す者」と「施される者」の関係になってしまい、そこに人として明確な線引きと少しの立場の優劣を感じました。
かわいそうという言葉はわたしも使うのですが、この投稿から感じたなんとも言えぬ”かわいそう”が苦手でして。笑
今を生きることに精一杯であることに幸せはないのでしょうか。
その人たちに幸せを感じる瞬間のスイッチが自分と違うだけで、その人の”幸せ”の定義を勝手にわたしたちが決めることができるのでしょうか。
わたしは物乞いそのものよりも”物乞いではない人生を送りたいと思った時に変わるための手段がない”、”物乞いが物乞い以外の世界が見えないこと”なんかについては世界が変わっていかなくてはいけないのではないかなと思います。
けれども、彼だけでなくいろんなボランティア活動に感じる謎の空気に対する違和感が消えないです。
空気名:”変えるため、救うために何かしてあげないといけない。だって○○じゃない(できない)なんておかしい(かわいそう)じゃないか”
わたしが苦手な空気。
何かに対して「それはよくないよ。こうしたほうがいいよ」と言われるときにも似ているような空気。
ときどき思います。
「わたしはわたしで”幸せ”なんだからほっといて。勝手に不幸せのレッテルを貼らないで」
その空気をまとって活動することは「悪いこと」ではないです。世界を変えるかもしれない1歩を踏み出すことは世界にとって偉大な1歩になる可能性を秘めていて”素晴らしい”世界が広がるかもしれない。声なき声を聞き、救うかもしれない。
けれども誰かのためを想っての行動が、誰かの何かを踏みにじって傷つけているかもしれない。
暗闇に突っ込んでみる勇気はすごいです。だって暗闇に何がいるかなんて、入ってみないとわかんないですし、何も始まらないですもんね。
そう思っていたら、何もしないことが誰かを傷つけないためには1番かもしれない答えに行き着いてしまいそうです。でも、それはそれで問題で。笑
彼の考えは多数決をとればおそらく「いいこと」になります。
けれど、そのことが誰にとって「いいこと」なのかはきちんと考えていく必要があるかなと思います。ちなみに「みんな」という答えをわたしは受け入れられないです。「みんな」って誰やねん。
繰り返しになりますが、わたしは彼の考えはすごいと思います。まだ見ぬ誰かのために頑張ることは今のわたしには到底できないことなので、見習わないといけないです。ただ認めるけれど、わたしは手放しで「すごいね!」って言えないところがあったよってことだけです。
なのであなたの”正義”を認めるけれど、わたしの”正義”をより豊かにしそうな部分だけもらっておきます。
こうやって記事を書くことでわたしも誰かを傷つけているかもしれないですね。
傷つけたくないのに傷つけてしまう…
けれどもわたしの「正義」は変えられないし…
(なんか古くさいラブソングみたいなってしまった笑)
あーっ!難しい!笑
それでは!