こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

あの日聞いた言葉を僕たちはまだ知らない。

こんにちは。こじまです。

 

今日はわたしの考える言語を学ぶことについてのおはなしです。

 

先日、韓国語を勉強しはじめてK-POPにハマったというおはなしをしました。

実は文法やらなんやらを勉強した言語でいうと韓国語は7つ目の言語になります。

日本語、英語、オランダ語タガログ語ポルトガル語、イタリア語、韓国語。

これがわたしが今までで勉強した言語です。これだけいうとマルチリンガルみたいでめちゃくちゃかっこいいですが、まともに意思疎通ができるのは日本語くらいです。笑

しかもせっかく勉強したのにもはや記憶がおぼろげな言語がちらほらあります。

 

どれも身についてないじゃないか!と怒られてしまいそうですが、別にどれも実用が目的で勉強をはじめたわけではないんで、「まぁ、いいや」と思っている節もあります。ははっ。

 

けれども言葉を学んだなかでは自分のなかにきちんと何かが残っている気がします。

 

わたしはその地域の文化や考え方が1番に表れるのって言葉だと思うんです。

たとえば日本語でいったら、兄弟姉妹と生まれた順で呼び名を区別するけれど英語は"brother"と"sister"しかないところ。兄弟の呼び名「お兄ちゃん」とか「お姉ちゃん」みたいにを区別する日本や韓国は序列において、年齢がすごく比重がおかれる要素であることに気がつきます。

ほかにも”こもれび”という言葉は日本以外の地域では相当する単語が存在していないこと。これは日本語をつかう地域とそのほかの地域では見ている世界が違うことがわかります。

 

こういったように言葉からその地域の文化がチラ見えするんです。そうすると自分と違う考え方をしている人がたくさんいることがわかってきて。それでいいんだって思えるようになってきます。

『真実はひとつかもしれないけれど、正解はたくさんあること』をわたしはいろんな言葉を学ぶなかで気がつきました。

 

誰もが納得する模範解答を作っていきたいのなら、ほかの正解も知らないとただの独りよがりになる気がして。ほかの正解をイメージするための足がかりとして”言葉を学ぶ”ことも手段の1つだと思うんです。

 

理解することの前にある”知っている”という状況が大事かなと。

 

こういうふうな考え方になったのは、中学・高校時代の「クラスメイトの言語を知ろう」が目的のあの授業のおかげですね。

当時は言葉を学ぶことの意味なんてさらさら考えていなかったですが、 今になってあの授業の意味がわかった気がします。

 

ありがとう!Thank you!

Dank u wel! Salamat!(Salamat po!)

Obrigada! Grazie! 고마워요!(감사합니다!)

  

なんて、かっこつけた文章を書いていますがこれは最近、勉強していてふと気づいたことです。そう、インスピレーション笑

 

つまりは「試験のスコアを上げるとか実用的かどうか以外を理由に言葉を勉強しようって思ってみませんか。言葉をつかえるようになって何するのか考えませんか」っていいたい!

公的な記録として自分の語学力を証明することは価値があることに同意はします。わたしも試験受けるし。スコアが高かったら達成感もあるし、それはそれでモチベーションも高まるし。

けど正直、証明を第一目的として勉強するのはなんかちょっとね!手段が目的になってる気がして気にくわないね!笑

スコア目的は否定はしないけど、好きか嫌いで言うなら、わたしはきらい!キライ!嫌い!笑(あくまでも個人的意見です)

言葉はツールやから!使えるようになったら、その先でその言葉を使って何を考えて、何を伝えるのかがもっと大事やとわたしは思うんです。

あとは母国語で考えられないことはそのほかの言葉でも絶対できないからね!(わたしの経験上)

だから母国語での勉強とか経験ももっと大事にしようよね!ってときどき周りをみていて感じてる。

 

(つまりはあの授業はTOEICみたいなテストに対して「この試験で英語のなにがわかるんや!?わたしはこんなことをするために英語を勉強してきたんじゃない!」という謎の反抗心を持ったひねくれこじまに生む理由でもあるということです笑)

 

この壁打ち記事を最後まで読んでくれたあなたが、こんなこと考えてる人がいるんだなぐらいでも思ってもらえたならなんて思ってます。

 

それでは!