こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

現実の井戸の底で

こんにちは。こじまです。

 

東大の入学式における上野千鶴子の祝辞の全文を読みました。

こじまの大学院も結構響く祝辞だったのでこういう風にアップロードしてくれたらいいのになんて。笑

(こじま、課題文献読みなよ…)

www.u-tokyo.ac.jp

今までの"当たり前"が当たり前じゃないことに声が上がり始めたからこその文章だなと。ここまで世の中を押し上げてきた動きはすごいな、ゆっくりだなと驚嘆しました。

 

また、母から小さい頃からずっと『女の子にはガラスの天井があるもので、いつか自分の性別で嫌な思いをすることがあることを覚悟しなくてはいけない』と言われていたり、母が総合職で働いていた20年ほど前のことをよく聞いていたり、自分の経験としてもあるので、ジェンダーバイアスが世の中に溢れていることには今さら感もあります。

 

それとは別でわたしにガラスの天井について話すときに諦めろと言わないで覚悟しろと言い続けたり、今よりも育休産休の制度が整っていない時代に管理職で育休産休を取った母を今さらながら「もしかしてすごい人なのでは…」と実感しています。あと家事をする父も。

 

話は変わりますが、世の中はどうあがいても不平等なものです。

けれども1年ほど前に書いたおはなしでも述べたように不平等に対して"かわいそう"と思うことはある種の優越感に浸ってしまうことと紙一重だと思います。

 

 "かわいそう"と思うことは自分が恵まれた立場にいることを無意識的に肯定し、それが"あるべき姿"だと錯覚してしまうことがあるような気がします。

 

わたしは人を区別をしていて、時々気づかないうちに差別しています。

それと同時にわたしは区別されていて、時々差別されていていることを知っています。

 

こういう考えは良くないよと言われてしまうかもしれませんね。

けれども区別も差別も否定してしまってはこれまでの人や社会の成長も否定してしまいます。区別も差別も存在していることを認めて『わたしとわたしを取り巻く人たちが違うこと気づいていること』や『自分が差別に加担していて自分が差別されていること』を知っていることこそが、この祝辞のなかに述べられている

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

  

この後半部分のことを実行するための第一歩だと思います。 

さまざまなことが区別されている世の中で自分が差別を感じたのなら「これは差別だ!」と声をあげることも必要だけれでも、その一歩手前に「なんで?」「どうしてそんなこと言うの?」と疑問を発することが必要ではないのでしょうか。

 

世の中は急には変われないので、さまざまな"当たり前"や相手の言動行動に対して尋ねることの積み重ねが問題の解決だと思います。

 

尋ねることには性別だろうと何だろうと、どんな記号も関係ないのですから。

 

誰だってできる差別撤廃運動です。だからわたしにもたくさん尋ねてくださいね。

 

そして冒頭の

統計は大事です

 という言葉も多くの人(特に国の予算を考える人たち)に響いてほしいなと思いました。笑

 

あとは目下悲しいなと思っているけれどどう名前をつければいいのかわからない『最近知り合った高卒で働いている元アルバイト先の年下の上司さんと性格の波長が合うので、これからも仲良くしたいけど見えない色々な壁できっと仲良くしつづけることは大卒キャリアの人に比べたら難しい問題』とか、それこそフェミニズムに対して思うことを書きたいなって気分になりました。

 

それでは!