こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

我がために努力はする

こんにちは。こじまです。

 

食器を片付けようとしたら手が滑って、素足の親指にフォークが降ってきました。しかもつき刺す側です。悶えました。

 

そんなことはさておき。

このブログを読んでいる方はよくご存知かもしれないですが、こじまはよく「頑張る」とか"努力"を口にするのです。

しんどいとか愚痴りながらもいろいろしていて、きっとわたしの周りには「そんなにやらなくても、いいんじゃない」 と呆れている人も多いと思います。笑

 

正直、今もわたしがそこまでやる必要のない"努力"をしています。それよりも立場的には卒論に時間を割かないといけないです。

今やっていることは『新年度が始まって走り出したものは止められない』というある意味、わたしとは関係ないところでの事情で動いているもので、学生の身分のこじまは突っぱねてもいいんだと思います。一応、慣習では引退した身なので。

 

けれども関わってしまうのは

『「投げ出した」という感覚になりたくない』というエゴが8割です。

残りは妙な責任感と使命感…かな。笑

 

例えるなら『3月のライオン』の主人公が中学生でプロ棋士になり、はじめは高校に進学しなかったけれども1年遅れで高校に入った理由を聞かれたときの返答に近いです。

31©羽海野チカ

あとから辛くなると「投げ出した」記憶に縋りたくなるんですよ。

『「投げ出す」ことをしても別に死ぬわけでもないし、なんとかなってるし。なんとなく世界は回っているし。』みたいな。笑

 

一度、「投げ出す」とそれをするハードルも下がります。

だから段々「投げ出す」ことに慣れていき、それをしていることに気がつかなくなり、「投げ出す」ことは別の何かに都合よく切り替わっていくものだと。

 

それに「やらない理由」を探して正当化させる論理を構築する時間を費やすよりも、やったほうが早いし得るものもあると思うのです。いろいろなことに。(それに、自分の意見を正当化しようと息巻いて論理を組み立てていくと、大概すぐ破綻するんですよ。)

 

わたしは『"努力"は必ず報われる』とは思わないです。

ですが、『"努力"は必ず活きてくる』と考えます。

 

何事も時期的な区切りや物事の結末まで見届けて、はじめてそこに至るまでの良かったことも悪かったことも自分の経験になり、人生の選択肢のカードの1枚になるのです。

やっぱり人生の手札はロイヤルストレートフラッシュにしたいじゃないですか!笑

たくさんカードを引けば、手札が揃う確率も上がります。それにポーカーを何度もすれば"賢く"カードを切る方法もわかってくるじゃないですか!(ポーカーあんまりしたことないけど!)

 

今日の"努力"が日の目をみるのは明日かもしれないし、10年後かもしれない。

もしかしたら死ぬまで結実しないかもしれないけれども進むしかないです。

 

わたしはいつか死ぬその時まで、飛べないなら走って、走れないなら歩いて、歩けなくても這っていくのです!

なぜならわたしがそうしたいから! 振り返ってみれば『全部自分のしたいことだった』と思いたいから!

 

今やっていることは区切りが来たらすっぱりやめます。2018年もしくは卒業という区切りで一度終わりにして、次の"引き出し"に新しい"努力"を詰めていこうと思います。

もう向こう5年くらいはこんな経験したくないです。ははっ。笑

 

 

今の状況下で卒論もちゃんと書き上げて卒業したら誰も文句ないですよね。

今していることから学ぶことは『10の労力で100の仕事をする』ですかね。笑

 

ただ、わたしも人間なのでたまには矛盾した愚痴もどうか温かい目で見守ってください。笑(人手も足りないので、あちこち至らないとこは許して…!)

  

それでは!

 

やさしさを分かち合えたのなら

こんにちは。こじまです。

 

先日の「まな板の鯉」はなんとか「水を得た魚」になりました。

その水が清水なのか泥水なのかはまだわかりませんが。笑

とにもかくにも来年度の社会的身分をゲットです。よかった。よかった。

 

ひと段落ついて旅にでも出たい気分ですが、片付いていない案件があるのでそっちにスイッチを入れないといけません。

もうこの案件は組織の今後を考えると、どうせ押し出されていなくなるわたしの立場からあれやこれやするのはよくないと思うのですが「首をつっこんでくれ」と頼まれたし、義理もあるのでやります。(ゆってもちゃっかり旅を計画しているのですが。何を言われようが意地でも行ってやるぞー!ここのスケジュールは譲らないぞーー!!そこまで自分を犠牲にする必要性はナッシングです!!!だって対価が釣り合わないもん!!!!)

 

いやぁ、こう考えるとここまでよく曲芸じみた生活送っているなと思いました。

2018年上半期はアルバイトをし、来年の社会的身分を手に入れるための諸々をし、学業にも向き合い、そして『たまたま運悪くこれまでの組織の負債の処理、それから破産手続きやらなんやらの代になる』どうみても貧乏くじを引いて。

サーカスでいうなら一輪車に乗りながら綱渡りをしてジャグリングして、火を吹いてぐらいですよ。(知らんけど笑)

自分で蒔いた種の回収でしかなく賞賛を求めるためにやったことでもないのですが、もう自分で自分のことをわしゃわしゃと撫でててあげたいです。(わたし、がんばってるよー。わたし偉いよー)

 

ここで貧乏くじを引いた諸々に関しては自分の責任も少なからずあるので、そこを放棄することはこじまのポリシーに反するからやっています。それに関しては他人に自分と同じように「投げ出さないこと」を要求することはしないようにしています。ですが、やっぱりわたしも人間なのでカチンときちゃう時はありますよね。

 

わたしは戦略的撤退ではなく、逃げ出すことを選択するとツケが後で回ってくると考えるので、正直どうしても「自分で決めたこと」を簡単に投げ出せる心理がわかりません。

そういう風に「自分で決めたこと」の責任の大半を他人になすり付け、散々に人のことをなじったり、文句を言い、自分のことを棚にあげて言うこと成すことはすべて自身にブーメランで返って、ちゃんちゃらおかしな論理になっているのに。そしてそれが自分の無能さや愚かさを露呈していることにどうして気がつかないのでしょうか。

 

誰しもレストランへ行けば、食べたいものを注文すればいいと思います。

そのときはお腹が空いていてたくさん食べれると思っていても、それは思い違いで食事の最中にお腹がいっぱいになることもあります。突然、お腹が痛くなることもあります。そんな理由で自分が頼んだ料理のすべてを食べきれないことは仕方のないことです。それは誰にも責める資格はありません。

ですが思っていた味と違うからというような理由で食い散らかした料理の代金を踏み倒そうとしたり、喰い逃げを企て店で騒ぎ出すことは違います。

それは料理を作った人や給仕をしている人、そのお店にいるほかの人の気持ちを踏みにじることです。

そして一悶着の後「お代は結構です」という言葉を引き出して、店をでた人はわたしには到底理解できない満足感でさぞいっぱいでしょう。きっとその後、食い散らかされた料理を片付ける人やそれを見る人の気持ちなんて想像もつかないですよね。

 

 別に料理を残すことはいいんです。

わたしは注文したものは完食しなければという価値観ですが、それ以外の価値観もたくさんあることも重々承知しています。

 

ただ料理を残して立ち去りたいときに自分の行動・言動でどういったことが起こるのかを考えられる想像力と、いかに料理がおいしくなかったことを責めずに伝えられるかと探ろうとする「やさしさ」が世の中にあふれたら解決することがいっぱいある気がすると言いたいんです!

 

そんなこんなでわたしは『他人には優しく。ただしその見返りは求めない』をモットーにこれからも日々過ごす所存であります!うおー! 

ま、別にわたしが「こうしよう」ということだけなので他人には要求しませんよ。

 

そう言いながらもいろんな場面で「なんで想像力を働かせないんだよ!?」とイラッときたり、わたしの「やさしさ」を無下にされてしまってしょんぼりすることも、自分が思ったより人に優しくできないこともいっぱいありますが。笑

 

ただレストランの例え話がどんなことを言いたいのか見当もつかず、そしてそれを知ろうともしないでゲコゲコと他人をなじり、自分が人より秀でた点のみですべての価値判断をする弱いものいじめが好きなカエルに関しては『どうぞその狭い井戸の中で一生を終えてくださいな〜!そしてアホ面下げてわたしの海に入ってくんなよ(>ω<)☆』という気分です。(顔文字は口が悪くなるのを精一杯、中和しようと思い挿入しました)

 

それでは!

まな板の鯉は淡水魚の夢を見るか?

こんにちは。こじまです。

 

タイトルは「まな板の鯉」が言いたいがために考えました。笑

(淡水魚も三文字でいい感じです。自画自賛)

毎度毎度言っていることですが、9月がもう半分が終わってしまいます。早いです。ああっ…2018年がもうすぐ2桁台に…

 

ここ最近のこじま的ビッグニュースは『旅行に行くつもりだった弟が関西空港ダンケルク『中高時代の友達の結婚』です。

 

弟の関空撤退作戦についてはこじま家ではニュースを見るたびに「わぁ…ダンケルクだ…本当にダンケルクだ…」と家族でつぶやいていました。

孤立してから次の日の夜に帰ってきたのですが、大変だったみたいです。特に食べものがなくて大変だったり、作戦を練らない友達に弟はプンプンして帰ってきました。

 

撤退作戦に並ぶニュースは友達の結婚・出産です。中高時代の友達が結婚したりする時期になったことが少し不思議な感じです。

気持ちは中高時代とは変わらないのに、どんどん環境は変化していくのですね。ちょっと置いてけぼり感が。笑

でも、みんな楽しそうだし元気そうで何よりです。こじまも嬉しいし、楽しいです。

(またこれについてはいつかまとめよう。そういってまとめないかもしれない)

 

とにもかくにも、こんな取り留めのない話をするほど今のこじまは「まな板の鯉」状態で気がそぞろです。

次のことを考えるにもふわふわなため、いっそ「やりたいことやってやるー!」という気分です。(えっ、いつもやりたいことをやってるって?)

 

まずは寝て、寝て、ひたすらに寝て。笑

それから久々にPS4を起動して一人細々とモンスターを狩るなど諸々のゲームしたり。アニメや映画、ドラマ観たり。

チケッティングしたり、ネットサーフィンしたり。

写真整理したり。絵を描いたり。買い物したり。

間にちょこちょこアルバイトを挟んだり。

 

なんて穏やかなのですか…

ただのまな板の鯉なので、目に見える形でこれからのことが決まったわけではないですが、何だかいろいろと「やらなきゃ!」「しなきゃ!」から解放されている気分です。

むしろ「今までどれだけそれに注力してきたの…」と思いました。

これまでもやりたいことしか、やってきてはないですがいろんなことを「むんっ!」と力んで臨んでいたんだなと痛感しています。

 

たまには、ほげーっと過ごすことは大切ですね。

ほげーっとすることでまた頑張れそうです。

 

さてさて。

そろそろお腹がすいてきたので、掃除機をかけたらお昼でも食べましょうか。

それからトリップアドバイザーをぼやぼやっとみたりして、「旅行いきたーい」という気分に浸ろうと思います。

 

それでは!

 

 

雨の日は会えない、晴れの日は"僕"を想う

こんにちは。こじまです。

 

8月はずっと忙しく、自分もシステムエラーを起こしたりで書き溜めた文章を推敲する時間もないまま31日がやってきました。

正直こういうことしている場合ではないのですが、どうしても8月は自分の誕生月なので1つでもいいから更新したくてこうして文章を書いています。

 

このたびの誕生日をもって、こじまは干支2周目に入りました。

星座占いだと獅子座だったり乙女座だったりする不思議な日です。

ちなみに届出上の誕生日は3分しか過ごしていないので、わたしのなかで誕生日は2日あると勝手に解釈しています。笑

 

そんなことはさておき、干支2周目というある意味で節目の一つとなりました。

ここまでの自分の人生を振り返って、こういう風になりたいなという「今」のわたしの考えをまとめたいなと。

 

突然ですが、わたしはこのパツキンくんの顔になりたいです。

 

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結構真面目にいっています。笑

けれどもそれは顔の造形云々ではないです。どういうことかは今から説明します。

(どうでもいいですが、この人は暗い髪色のほうが個人的には好きです。それにしてもジャケットの主張がすごい)

 

今からする話はわかる人は分かる、わからない人は分からない話です。別にわからなくても死にません。笑

 

わたしは人の顔にはいろんなものが表れるとおもっています。

「二十歳までは親の顔、二十歳からは自分の顔」です。

うむ、ココ・シャネルも似たようなこといってました。

 

なんというか顔に人生の色がでるんです。感情の出し方とか、いろいろです。

人の印象はある程度は服装なんかでごまかせる部分も多いですが、顔は化粧をしてもその人となりが1番にじみ出るパーツだと。

 

アルバイトをしながら生徒の顔をみて「この子、話わかってないけど「わかります」って言ってるな」とか喫茶店のアルバイトでもお客さんをみて「のんびりしていきたい人だな」とか「優しそうだな」とか人の見た目からわかることが多いです。そして大抵はずれない。(そしてそれを仕事に活かす。笑)

だから意地悪い人はだんだん、いじわるそーうな顔になるんですよ。笑

 

このパツキンくんからわたしが感じるのは『寛大さ』『努力』、そして『「求められる姿」を「なりたい姿」に比較的ストレスなく昇華していること』です。

 

インタビューやらなんやらでは

「僕の苦労は僕にだけ、わかればいい」

「一つ我慢すれば二つ得て、二つ我慢すれば四つを得る。その時がくるまで僕は僕がすべきことをただ尽くすだけ」

「僕は僕の幸せのために行動する。そのために人を笑顔にして、その笑顔が僕を笑顔にするんだ」

なんて発言しています。

 

基本的にインタビューなんかは模範解答を事前に準備しているものだという考えなのですが、さすがにこれは1mmもこんなことを考えていない人間は発言できないなと思いました。

 

自分もそういう人間になりたいなと思いました。

それはわたしの努力次第ですね。

 

そしてパツキンくんが歌ったこのソロ曲、『Epiphany』(動画は字幕設定オンにしたら、英語でます)

この世界で"僕"は僕が愛すべき存在。

光り輝く"僕"を、大切な"僕"の魂を

やっと気がついたんだ。

僕は"僕"を愛そう。

完璧ではないけれど、とても美しいんだ。

"僕"は僕が愛すべき、ただ一人の"僕"

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BTS (방탄소년단) LOVE YOURSELF 結 Answer 'Epiphany' Comeback Trailer


果たしてわたしの思考がこの製作陣に寄っているのでしょうか、それとも世界に訴えていることがわたしの思考なのでしょうか。笑

 

わたしの幸せの器には、わたしにしか幸せという水を注げない。

そしてその器は穴が開いていて、決して満たされる瞬間がくることもない。

けれども、たとえ水が満たされることがなくてもわたしが水を注ぐことをやめる理由にはならない。なぜなら、すべてのことには意味があり満たされないことにも意味がある。

 

なんて、わたしは思います。

(そう思うと10歳ほど離れていた、はとこよりも気づけば5歳も年上になったことも不思議なものです。)

 

干支3周目にむけて世界一嫌いな自分のことを、もう少し好きになってあげようかな。

 

そんなことを考える干支2周目の始まりでした!

 

それでは!

 

 

余談ですが この「LOVE YOURESELF」シリーズの集大成である「結:Answer」はトラックリストの構成からも作品になっていてグッときます。よかったらいろいろ聞いてみてください。

 

すべてが記号になる

こんにちは。こじまです。

 

ちょっと前まで7月は一桁台の日付だったのに、気づいたら8月が迫っています。おかしいですね、わたしの周りの時空が歪んでいるのかもしれません。

最近言われておもしろかった言葉No.1の「人生何回目なん?4回目くらい?」と言われたのも時空が歪んでいるせいで、あながち間違いではないのかも。笑

 

それはさておき。ひょんなことから「国際化」とは何かという話になったので、息抜きに眠らせていたこの記事を書き上げました。(ああっ、先にやるべきことをやりましょうと石を投げないでっ…!笑)

 

巷では「国際化」を持ち出すことが最近はすごく多いと思います。わたしはその言葉が溢れかえる一方で昨今の「国際化」はちゃんちゃらおかしいなと思うことが多いのが現実です。

わたしの思うこの言葉の広く持たれているイメージは大学が売りにするところだと留学だったり語学力に結び付けられている気がします。(わたしの通う大学然り)

個人だとFacebookなんかのSNSで自己発信を他国の人にするとか、外国人の友達がいるとか、英語がしゃべれることだったりというあたりですかね。

別にそれでもいいと思うの部分もありますが、そこで終わるとただの量産型自己満足にすぎないのではないかと。

 

「国際化」という言葉を聞いて何をイメージするかはその人の自由です。

わたしにとっては「国際化」とは「自分が向き合うその人自身を見て、接すること」とその向き合う対象の拡張です。

 

わたしは中高6年間を良くも悪くも世界の縮図みたいな学校で過ごしてきました。

(いや本当に良くも悪くも階級社会であり、格差社会でありetc…リアル「もしも世界が100人の村だったら」です。自分の出身校、好きでもあり嫌いでもあります。またその話は追々…)

その学校は「外国籍」、「帰国子女」、「日本国籍」の3区分に受験枠が分かれています。なので1年目の「どの枠で受験した?」、「何人?」、「どこの国に住んでたの?」という言葉は挨拶のようなものです。はじめのうち、この言葉はかなりの効力を持つのですが段々と薄れ6年目になると、もはやどうでもいいことになるんですよね。(わたしもその括りにこだわっていた時期もあるのですが、今思い出すと本当馬鹿ばかしいです。笑)

 

その質問に飽きたという部分もありますが、その子と一緒に過ごすうちにそんなことにはなんの意味もなく、友情には微塵も関係ないことに気がついてきます。つまりは「どこの受験枠か」だとか「何人か」はどれもただその人に付随している記号でしかないのです。わたしは記号と会話をしているのではなく、その人と会話しています。

 

ちなみにわたしは「帰国子女」の枠でその学校に入りました。これは知っている人は知っているし、知らない人は知らない程度のことです。別に声を大にして言うことでもないので必要な場面でしかそう名乗らないし、尋ねられたら「そうだよ」と答えるだけです。わたしにとって親の仕事の都合で海外に住んでいたことは「今は関西にいるけど、小さい頃は関東に住んでいたよ」と全く同じレベルのことなのです。(ここに関東を選んだ理由は特にないです。笑)

 

「帰国子女」はわたしを表すただの記号の一つだけれども、わたしのなかで海外生活は今の価値観の根っことして確実に存在しているので、そこをなかったことにすることは難しいです。けれどもただの記号であることにあまり意味を見出してほしくないと思います。なんというか、「帰国子女」という記号に重きをおいてあまり話をしたくないのです。「こじまは◯について△と考えている」というのは良いのですが「こじまは帰国子女だから◯について△と考えている」みたいな収束のつけ方をしないでほしいのです。

 

今の『「帰国子女」にあまり意味を持たせないで』は人種や肌の色、性別、使う言葉に宗教、思考など数え切れないほどの文脈に当てはまるとわたしは思います。

男友達に「私服校やったからスカート履いて、学校行ったことあるんよー」と話の中で言われた時に「へぇー、そうなんや。着る服考えるのは面倒やけどいいなぁ、私服校。カーディガンとかでも登校できるし。うちの学校はカーディガンで登校できんくてさー」「せやろー」ともぐもぐお昼を食べながら呑気に会話をするのもわたしの中では同じです。(当時、一瞬びっくりはしました。でもそれだけです。進路が違ってからも彼とは定期的に会う仲です。)

 

記号は記号、その人はその人として話をすることができるように訓練していく過程で「『世の中いろんな人がいるし、あなたもいろんなことを知って、受け入れてみると見える世界が変わるかもよ?』と他人を誘ってみること」ができると、より「国際化」なのかなと感じます。

 

人間みな何かしらの記号がついています。もちろん自分に嫌なことをしてきた人にも記号がついているわけで。

「国際化」とはただ憎い相手と同じ記号がついているという理由だったり苦手だと思う記号が実は付いていたとわかったという理由で、昨日まで仲良くしていた友達をやめるのかという話でもあるかと思います。

 

それでは!

(色眼鏡で見られたり、いろんなことがすごく面倒だから、あの学校界隈の人間以外に「帰国子女」とか「スポーツなどで日本以外の国を応援する理由」をあまり言いたくないという話でもありました!ちゃんちゃん!笑)

 

悩むよりGO GO

 こんにちは。こじまです。

 

あれ書きたい、これ書きたいを巡らせていたら、なんだか知らないうちに7月です。いったい6月は一体どこへ行ってしまったのですか…

 

最近ぼやぼやとモノを考える時間が少しできたので、ふと去年のことを思い出していました。ちょうど去年の今ごろはロサンゼルスにいたなぁと。1年とは早いものです。

(ちなみにトランジットがホノルルで時間もあったのでワイキキビーチ眺めたり、Mac Book諸々担いでダイアモンドヘッド登ったりしてハワイを満喫(?)したのもいい思い出です)

 

そもそもどうしてそんな時期にロサンゼルスにいたかというと、Anime EXPOに参加するためでした。毎年7月の1日から4日にかけて開催されるアニメや漫画関連のイベントです。いわゆるアメリカ版コミケみたいなものです。

 

なんで行こうと思ったかというとただ単におもしろそうだと思ったからです。

それだけです。

 

以前のおはなしにも書いたような気がするのですが、基本的におもしろいことをして生きていきたいタイプなので、ほいっと「ロサンゼルス行きたい!Anime EXPO行きたい!」と言い出しました。本当に清々しいほどに安直。

(その安直なわたしの思いつきに付き合ってくれた方々、本当にありがとうございました)

 

こういう発想で生きているので、すぐ自分の預金残高と戦うことになるのですが後悔することはほとんどないです。固定費以外は思ったことにやりたいこと、欲しいもののためにお金は稼いでいるので!(まぁ1番いいのは「やりたいことでお金が稼げること」ですね。けれども難しいです。笑)

 

そういうおもしろそうだと思ったときの直感はスーパーで「買ってくれ!」と叫んでいるお肉に遭遇したみたいなかんじです。そういうお肉は本当においしいことが多いんです。笑

そういう感覚って今までの自分の経験や知識が折り重なってできているものだとわたしは思います。つまりは自分の肌感にあうものを選んでいる確率も高いわけです。だからこそ自分にとってそれはすごく実りあるものだったり、過程が価値のあるものになる可能性が高いのかなと。

実際にロサンゼルスに行ったこと・行くまでのことはわたしにとってすごくいいものになったので、こうして1年後に回想しているわけなのです。笑

  

そういう感覚を信じていくことがいわゆる「自分らしく生きる」ということなのかもしれませんね。この感覚はきっと今よりも"貧しく"なっていくと鈍ってしまうのでしょう。『貧すれば鈍する』ですから。わたしにとってこの感覚は大切にしているので、そういう意味で"貧しく"はなりたくないなと。笑

 

しかしながら世の中"貧する"確率はどんどん上がっていっている気はします。好きで"貧する"人なんてそういないと思いますが、なりたくなくてもなってしまうことがある世界です。世知辛いですね。

 

そして"安定"し"富める"とされるレールから外れた生き方は感知されることもないまま「幸せではなかった」という烙印を押されてしまうことも少なくないと思います。

 

ここで『オメラスから歩み去る人々』という作品を紹介します。オメラスという場所は"完璧な理想郷"です。けれどもそこはとある犠牲によってすべての"幸せ"が保証されている"素晴らしい"世界です。誰もがその犠牲のうえに"幸せ"があることを知っています。そして、その街から去っていく人がいるという物語です。(この作者の作品は大概しんどいです。『ゲド戦記』然り…詳しくは作品タイトルで検索!検索!『オメラス~』は短いのでぜひとも読んで欲しいです)

 

その物語のように今あるとされる"安定"と"富"よりも、そこから歩み去ることを選択してもまた間違いではないと思います。もちろん、いろんなことを知って考えないとただの放蕩になってしまうとは思います。笑

 

そういうわけで紆余曲折ほどもないですが、なんやかんや来年からのわたしの社会的身分はまだ決まっていません!笑

 

安直に直感を信じられる場所に行きたいがため、いろいろと考えた結果レールから外れる。

なんだか矛盾しているような、してないような。

いいんです!世の中矛盾に満ちていますから!笑

  

まぁ、とにもかくにも来年も生きているつもりです!笑

(ちょっと心配されてしまったので、水面下で動いているよという経過報告までに…)

  

それでは!

 

 余談ですが以下『So what』と『楽園』という曲のわたしのお気に入り歌詞を抜粋で紹介します。

どちらもいい歌詞(こじま基準)なので全文読んでもらえたらと思うので、また暇なときにでも検索してみてください。(訳はいろいろとあると思うのでお好みのものをみつけてください)

この180°志向の違う2曲が同じアーティストの1つのアルバムに入ってるのって、なかなかにパンチ効いてるなって思います。笑

 

 『So What』

Someone call me right one. Someone call me wrong.

けど僕は気にしないよ。君もそうしたら?  

思い通りになるものなんてなくて、隠れる場所なんてなおさらなくて。

とうの昔に賽は投げられた。ぐずぐずしてたら流されるぞ。

悩みの9割は君が作り出した想像の沼  

境界線上でピンチになったとしても、笑って騒いで風を切ろう。

時には愚かにバカみたいに走って、失敗と涙の中を進むんだ。

So what 立ち止まって悩むのはやめよう。

どうせ全部無駄だから。

 

『楽園』

そうマラソンさ、マラソン。長い人生、ゆっくり行こう。

42.195 その先には楽園が待っている。

けれども現実世界はそんな約束通りじゃない。

僕たちは走らなくちゃ。歩かなくちゃ。

信号弾を放ったのなら、君には何の目的地もない。何の展望もない。

息がつかえて苦しい時、止まってもいいじゃない。

何も理由がわからないまま走る必要はない。

夢がなくても大丈夫。少しでも幸せを感じる瞬間があるのなら。

 未来だけが夢というのなら、僕が昨日の夜ベッドで見た夢は何さ。

夢の名前が違ったっていいじゃないか。

来月ノートパソコンを買うこと。

それともただ食べて寝ること。

なんにもしないでもお金がたくさんあること。

夢が大きくて何が悪い。どんな夢を見たって

We deserve a life

何が大きかろうが小さかろうが君は君でしょ。 

 

 

 

僕と"僕"と僕の生きる道

こんにちは。こじまです。

 

ここ最近の自分のなかでのモットーは『人生は"アイドル"だ』です。

それは別に「外見がどうのこうの」とか、「ファンがいるからどうのこうの」ではなくまた違う意味で考えています。

 

まず"アイドル"は表現者という括りのなかでは最も周囲の人々から「こういう人でいてほしい」という願望を向けられる存在だと思います。なので"キャラクター"が作り出され、それに適った行動を求められます。その"キャラクター"はどこまでもついてきて。本当の"自分"はそっちのけで、社会との接点ごとにある自分において「なりたい自分」「求められる自分」の狭間で悶々とし続けなくてはいけません。

 

 またほかにも人生と"アイドル"が繋がるなと感じる部分は『舞台は自分ひとりでは決して成立しない』ということ。月並な言葉で言うなら『人生誰もが主役』です。そして『人生誰もが誰かの裏方』です。自分の努力がどこに行き着くのか。矢面にたつことは辛いけれど、ステージを突然放棄してしまうことは自分のために尽力してくれた人たちの気持ちを蔑ろにしてしまうなと。(だからといって死にたいと思うまで頑張れという話ではないです)

 

アイドルを追いかけるようになってから、ぼやぼやとそんなことを考えながら自分の糧にして生活してます。(こんなこと考えてみてるから研究対象に対する目線とか言われる)

 

まずは「なりたい自分」と「求められる自分」の話からしたいと思います。

アイドルが常にコンセプトを抱えているのと同じようにわたし自身も「こうありたい」というコンセプトがあって。その理想と現実の狭間にいるのが"今"のわたしです。

 

新しい曲をだすたびにファンが増えるのと同時に「この前のコンセプトのほうがよかった」、「デビューしてから時が経って変わってしまったんだね」という言葉を投げてかけられて。去っていくファンがいて。これって言葉を置き換えるだけで日常においてもありふれたことだなって感じます。その行為は誰にも咎められるものではないけれど、言われた側にはなんだか堪えるものがありますよね。

 

そうやって自分を取り巻く人々が求める役割を推し量って、役割をこなしていくなかで、ふと「あれ"わたし"って何だろう。何がしたいのだろう」と感じて自分の軸が何なのかわからなくなって思考停止してしまいます。それは自体は誰しもあることです。けれども世界はそれでも回っているので。あっという間に取り残されてしまったような気がして正直怖いです。

 

そんな思考停止から抜け出したいのなら、いつぞやのブログ記事に書いたように自分の「こうしたい」を上手に作らないといけないですね。そして周囲が求めるものとの結節点を見つけていかなくてはいけません。けれども上手に作り上げた「こうしたい」が受け入れられるかどうかはまた別問題です。変わっても変わらなくても"わたし"は"わたし"でしかないのに難しいものです。この「変わる・変わらない」の是非は『「いちご白書」をもう一度』の時代でも言ってるので、永遠の命題なのかもしれませんね。(また古い歌を…)

 

僕は無精ひげと髪をのばして、学生集会へも時々出かけた。

就職が決まって髪を切ってきたとき、もう若くないさと君に言い訳したね。

『「いちご白書」をもう一度』

 

あんまり学生運動とかの映像を見たことなかったりしたらイメージしにくいですかね。まぁ、親が年寄りなので耳学問として知っているだけでわたしもその時代を生きてないので何とも言えませんが。笑

(完全なる余談ですが米澤穂信の「氷菓」、初野晴の「初恋ソムリエ」はこのあたりの時代がイメージできた状態で読むとよりおもしろいです)

 

ちなみにこちらは曲作りに関わった人自身も"君"と"僕"を対人と捉えるだけでなく、対自我としても捉えられると言っていた曲のとある部分です。この曲、対自我として歌詞を読むとなんか対人とまた違ってしんどいです。そしてなんで鬱屈とした気分なときほど鬱々とした曲って響くんですかね。笑(「大丈夫!なるようになるさ!」系と「もう世界しんどい」系の曲を繰り返し聴いていて情緒不安定かよとツッコミたくなるこじまのプレイリスト)

 

「見慣れない」っていうんだね。君が好きだった僕に変わった僕を。

「僕じゃない」っていうんだね。君がよく知っていた昔の僕を。

「違う」って何が違うのさ。僕はもう何も見えないよ。

『FAKE LOVE』

 

喜んでもらいたくて、もっと好かれたくて自分を変えてみたけれどそれを拒否されてしまうとショックで立ち直れないですね。たとえ周りから何を言われたとしても、人は毅然とした態度を貫けるのでしょうか。周囲とのズレが辛くてその"自分"を手放したところでそれでよかったのかと悩んで。

 

まわりを頼ったとしても結局、自分でどうにか折り合いをつけるしかないですね。

誰しもやじろべえのようにゆらゆらと倒れるわけでもなく、「なりたい自分」と「求められる自分」の狭間においてどっちつかずでバランスを取っているのでしょうね。

 

なんだか「なりたい自分」と「求められる自分」の話だけで文字数がえらいことになったのでもう一つの『舞台はひとりじゃ完成しない』についてはまたいつか書こうと思います。

 

それでは!