こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

ラヂオの生活

こんにちは。こじまです。

 

あいかわらず1週間が光の速さで終わっております。

ちなみに今は通学時間が5分なので、すぐおうち帰るっ子してます。笑

 

そして家にテレビがないのでラジオをずっと聴きながら生活しております。

こじまのなかでラジオブーム到来です。

 

昔からラジオっ子だったのですが、一人暮らしを始めてから本当に1日中聞いています。手を止めずに無音にならないし、天気予報もわかるしニュースもわかるで優れものです。(こじま、音がないと本当に無理で…)

 

今はネット経由で聞き逃した番組を聞くことができたりで技術の進歩をひしひしと感じています。昔、親からもらったラジオの電波がよく入る場所を探して部屋中をウロウロしたり、アンテナの向きを微妙に変えたりしていたのが懐かしいです。そういえば天気によってよく聞こえなかったりもしました…(遠い目)

 

久しくラジオを聞いていなかったので、どの番組も新鮮です。

主にNHKラジオを聞いているのですが、エンタメやスポーツもあったりいろんなジャンルを扱うラジオ深夜便があったりで飽きません。選曲も民放より攻めているのでこじまは好きです。

 

何よりも「こども科学電話相談」が毎週のレギュラー放送になったのは最高です。

 

www4.nhk.or.jp

こどもたちのリアクションもさながら癒されますが、「逃げてしまったクワガタが心配」とか「植物はどうやって会話しているの」とか「化石みつけたら自分の名前を恐竜につけていいか」といった質問は今の自分にはない視点の質問ばっかりで勉強になります。

そして大人が真面目にこどもの素朴な質問にちゃんとこどもがわかる言葉で答える姿勢がいたまりません…!「ああっ…!賢い人ってこういうのなんだな…!」と感じます。

 

(20代 大学院生)

 

 

ちなみに実はこじま、ラジオに投稿もよくしていました。笑

投稿が採用されると嬉しくて何度も何度もいろんな番組に送りました。

(こう書くとなんかの新手の薬物みたいですね…蘇るコラのネタになっていた懐かしき薬物乱用防止ポスター…)

 

そして、いかにして採用されるかをめちゃくちゃ考えるほどの本気でした。ほどよい文章量を計算して、そのなかでちゃんと伝わる内容を推敲したり、録音放送のラジオではどのタイミングで収録があるか目星をつけてどのタイミングで送れば構成作家さんのアンテナに引っかかるかまで考えて送るほどでした。

 

もしかしたら今のこじまの文章力はラジオ投稿で培われたといっても過言ではないかもしれません。笑

 

それにやっぱり、初めて採用されたときのことは忘れられません。

わたしの初採用は中学生のときにFM802のマーキーが担当していた土曜のお昼の番組で「夏の終わりだと思うこと」というテーマで、「親が宿題しなさいって言わなくなったとき」でした。

 

録音放送のラジオはオタクなものが多いので、採用されたときの番組は今でもニコニコ動画なんかに残ってたりで聞けますがこればっかりは生放送で録音されてないものなので聞き返せないので少し残念です。

 

テレビがないとやっていけないかなと思った生活ですが、ラジオとWOWOWオンデマンドで意外と楽しくやっていけてます。その生活にNetflixを入れたいところですが、そこは要検討です。笑

 

それでは! 

 

 

 

 

 

学問はスルメ

こんにちは。こじまです。

 

前回めちゃアンニュイなこと書いてましたが、結構こじまは東京ライフひいては大学院生活楽しんでおります!笑

しんどいけど!だいぶしんどい!めちゃしんどいです!けど楽しい!

(最近大学院に入ることを入院って言うらしいと知りました)

 

レジュメ作ったり、課題文献・論文を読むのも当然しんどいです。(文章量的に)

けれども何よりも知識!議論のための前提知識がなくて!

 

いわゆる専攻を変えて入ってきているので同期やゼミの先輩と比べたら知識レベルのスタートがまず段違いです。

毎度の授業で「誰やねん…」「なんやねん…」と唸っています。

仕方ないよねーと思ってしまったら負けなので、資料調べて本読んでを繰り返しております。議論についていくには王道しかないので…!

 

作業としてはちゃめちゃに大変なのですが、本を読みながら「これは…!」と思うこともたくさんあるので楽しいです。これが"楽しい"が"しんどい"を飛び越える瞬間です。

 

ここ1番の「うわわーっ!学問たのしい!」の瞬間は人類学の授業で読んだ『うしろめたさの人類学』です。

かなり一般向けに書かれた本なのですが、すごく学問学問してる文献でレジュメを作るのはめちゃ苦労しました。

 

『うしろめたさの人類学』著:松村圭一郎

うしろめたさの人類学

ここに書かれているなかにわたしが以前ブログで書いた

「物乞いに対して"かわいそう"と思うことは明確に立場の線引きをしてしまうから嫌」、「人生はアイドルと同じで"なりたい"姿と"求めらる"姿の折り合いをつけるもの」に近いニュアンスのことが書いてあって1人で「ほわわわー」となりました。

 

↓ちなみにそのときのブログ

17-wwannanext.hatenadiary.com

17-wwannanext.hatenadiary.com

自分が感じたことを学問的にいうとこうなるのかとひしひしと感じました。

この本を読んですごく納得したので「これを"批判"するならどうなのか」、「この議論の先にどういくのか」を考えようと思います。

 

そしてレジュメを作って臨んだ授業では序盤の"本質"という言葉の難しさと構築主義に打ちのめされました!あと著者のスタンスを読み取るの難しい!笑

(構築できるということは"本質"がないからこそで…"構築主義"ではうんぬんかんぬん…)

 

今日も今日とてこじまは頑張ります。

 

 それでは! 

 

がんばると言ったことを実行に移そうと授業も休講になったので昨日「よーし!今日は早く寝て明日は朝からがんばるぞー!」と意気込んでいたのに、目覚ましを止めた記憶もなく予定より2時間も遅く起きてしまいました。そもそも目覚ましは鳴ったのでしょうか… 

ぼくのごーるでんうぃーく

こんにちは。こじまです。

 

世間でははじまりましたね、ゴールデンウィーク。大型連休ですね。

東京に来てまだ2週間くらいなんですが、なんだかもう1ヶ月くらいいる気分です。不思議です。

 

そして、こんなにも何も用事がないゴールデンウィークってはじめてな気がします。

中高はいつも合宿があったし、学部時代はバイトしてだったので10年くらい「休みだー!」みたいな感覚はなかったです。

ここにきて突然のお休みらしいお休みです。

とは言いつつも人が多すぎるところは嫌いなので東京観光したるぞー!という気も起きないていないです。天気もなんだか微妙だし。笑

 

今はいそいそと文献読んだりレジュメ作ったりでアルバイトもしていないので、買い物もできないし。それになんだかそわそわしてしまいます。

 

なんていうんですかね。これまで半分くらいわざと忙しくしていたので、こうもぼやーっとする時間があるとむずがゆいというか気持ち悪いというか。

 

ぼやーっとしていると謎の焦燥感に駆られてしまうんですよね。

それも短期的な「課題しないと!」「文献読まないと!」みたいなものじゃなくて、「これからどうしていこうかな」とか「どうやって生活していくのかな」とか、お金の心配したりとかの長い視点でのぼんやりとした不安からの焦燥感。

 

そんなこと考えていてもしょうがなくて、目の前のことをやるしかなくて、やるべきことに真摯に取り組むべきなのはわかっていても考えちゃうんですよね。

だからこそ、この先のことを考えなくていい瞬間が欲しくて学業の隙間にアルバイトいれたくて、いれたくて。笑

ゴールデンウィーク終わったらちょうどいいアルバイトをみつけたいものです。

 

わかりきった道筋はつまらないけれど、時々道しるべは立っていてほしいなと思いながら家事をする以外はずっと机から動かない。

そんなこじまのゴールデンウィーク初日でした。

 

それでは!

 

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ごはんも勉強も休憩も今はこのごちゃごちゃした机で

 

現実の井戸の底で

こんにちは。こじまです。

 

東大の入学式における上野千鶴子の祝辞の全文を読みました。

こじまの大学院も結構響く祝辞だったのでこういう風にアップロードしてくれたらいいのになんて。笑

(こじま、課題文献読みなよ…)

www.u-tokyo.ac.jp

今までの"当たり前"が当たり前じゃないことに声が上がり始めたからこその文章だなと。ここまで世の中を押し上げてきた動きはすごいな、ゆっくりだなと驚嘆しました。

 

また、母から小さい頃からずっと『女の子にはガラスの天井があるもので、いつか自分の性別で嫌な思いをすることがあることを覚悟しなくてはいけない』と言われていたり、母が総合職で働いていた20年ほど前のことをよく聞いていたり、自分の経験としてもあるので、ジェンダーバイアスが世の中に溢れていることには今さら感もあります。

 

それとは別でわたしにガラスの天井について話すときに諦めろと言わないで覚悟しろと言い続けたり、今よりも育休産休の制度が整っていない時代に管理職で育休産休を取った母を今さらながら「もしかしてすごい人なのでは…」と実感しています。あと家事をする父も。

 

話は変わりますが、世の中はどうあがいても不平等なものです。

けれども1年ほど前に書いたおはなしでも述べたように不平等に対して"かわいそう"と思うことはある種の優越感に浸ってしまうことと紙一重だと思います。

 

 "かわいそう"と思うことは自分が恵まれた立場にいることを無意識的に肯定し、それが"あるべき姿"だと錯覚してしまうことがあるような気がします。

 

わたしは人を区別をしていて、時々気づかないうちに差別しています。

それと同時にわたしは区別されていて、時々差別されていていることを知っています。

 

こういう考えは良くないよと言われてしまうかもしれませんね。

けれども区別も差別も否定してしまってはこれまでの人や社会の成長も否定してしまいます。区別も差別も存在していることを認めて『わたしとわたしを取り巻く人たちが違うこと気づいていること』や『自分が差別に加担していて自分が差別されていること』を知っていることこそが、この祝辞のなかに述べられている

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

  

この後半部分のことを実行するための第一歩だと思います。 

さまざまなことが区別されている世の中で自分が差別を感じたのなら「これは差別だ!」と声をあげることも必要だけれでも、その一歩手前に「なんで?」「どうしてそんなこと言うの?」と疑問を発することが必要ではないのでしょうか。

 

世の中は急には変われないので、さまざまな"当たり前"や相手の言動行動に対して尋ねることの積み重ねが問題の解決だと思います。

 

尋ねることには性別だろうと何だろうと、どんな記号も関係ないのですから。

 

誰だってできる差別撤廃運動です。だからわたしにもたくさん尋ねてくださいね。

 

そして冒頭の

統計は大事です

 という言葉も多くの人(特に国の予算を考える人たち)に響いてほしいなと思いました。笑

 

あとは目下悲しいなと思っているけれどどう名前をつければいいのかわからない『最近知り合った高卒で働いている元アルバイト先の年下の上司さんと性格の波長が合うので、これからも仲良くしたいけど見えない色々な壁できっと仲良くしつづけることは大卒キャリアの人に比べたら難しい問題』とか、それこそフェミニズムに対して思うことを書きたいなって気分になりました。

 

それでは!

とうきょうぐらし

こんにちは。こじまです。

 

こじま、東京にやってまいりました。

そして!ついに!実家の部屋は片付かないままでした!

GWに足りないものを回収しに戻る予定なので、きっとそのときに…!(これはフラグでしかない気がする)

 

一人暮らしをはじめてみたんですが、まだ新しい部屋の整理や買い物だとか大学院でのガイダンスなどでバタバタし続けています。新しく住み始めた街があまり地元と変わらない感じがするからかもしれません。

 

新しく生活している街は"平たい地元"という感じです。

ちなみに山と海のない地元というのが受験で来た時の第一印象でした。笑

わたしの地元は坂が基本なのでその街をただ平野に作った雰囲気がします。

引っ越しも何回か経験しているので、もともと"新しい街"を"自分の街"にすることには慣れていますがやっぱりはじめは馴染まない感覚がするのですが今回はあまりしてないです。それはいいことだと思いたいなというところです。

 

それとやっぱり関西と関東は感覚が違うのかなーと感じながら生活しています。

この1週間で特に驚いたことは電車関連です。駅は大きいし、東京は関西の比じゃないくらいの電車が乗り入れしているので目が回りそうです。新宿に行った時になんでこんなにも改札から人が途切れないのか!と驚いたものです。笑

 

わたしの住んでいるところはそんな新宿とは違っていわゆる閑静な住宅地の部類なのでそんな大都会とはまた別の雰囲気です。それに2駅先ほどに住んでいる友達が2人いるので心強いです。笑

 

まだまだ自分の生活圏内のスーパーを3軒確保した程度の行動範囲なのでもう少し生活に慣れて、学業も波をつかんだら足を伸ばしてあちこち遊びにいきたいものです。東京は美術館や博物館もたくさんあることですし!

 

さて履修計画もひとまず組んでみたこじまは東京暮らしをはじめて1週間をさいたまスーパーアリーナでのコンサートで締めたいと思います!笑

 

それでは!

寂寥と共に去りぬ

こんにちは。こじまです。

 

ついに先日大学を卒業しました。パチパチパチー

けれども卒業後も学生の身分だからなのか、正直あまり実感がないです。

 

来週から東京で生活していくわけなのですが、ここにきてものすごく寂しくなってきました。大学院は進学するところしか受験していないので、一人で暮らすことは前々からわかっていたことなのに不思議ですね。

 

東京に行く前に会っておこうと予定を詰め込みながら日々生活しています。

この前まで卒業旅行にすらあまり行こうという気も起きず、週5日9-17時でアルバイトに邁進していたのに手のひらを返したように遊んでいますよ、こじま。

 

けれどもアルバイトをしながらこういう人生の方向性もありなのではと新たな発見をしたり。お世話になったバイト先の職員さんと遊んだりして『"いい縁"だな』、『また会いにいきたいな』と思ったり。中高時代の友達と昔と変わらずわちゃわちゃとネットゲームしたり。

 

東京では東京の縁で新しい友達や向こうで働いている友達らに会えるのでわくわくすることもあります。

 

けれども、なんですかね。この"寂しさ"は!

 

わたしと同じように東京が拠点になるとわかっている友達といても寂しい、寂しいってずっとご飯を食べながら言っていました。

あとはほぼ毎日、晩ごはんは"家族"だったり"友達"だったりとご飯を食べていたので一人の晩ごはんに怯えています。たぶんそこが1番の寂しいと感じるポイントかもしれません。笑

 

この寂しさはどこで糧になるかわかりませんが、大事に東京へ持って行こうと思います。そして父からわたしは『勉強は好きだけど、勉強が足らん』とバシッと現実を突きつけられたので頑張らねばです。

(そしてそんな父がわたしの進学先付近の地域情報をめちゃ調べては楽しそうに報告してくれるので、たぶん一番わたしの進学を喜んでいる。口には絶対しないけれど)

 

そしてわたしの大学生活はなんだかんだ言いながらも、きれいにボタンがかかっていた4年間の大学生活だったのではと思います。

もうずっと言っていますが、ほんと世の中ってよくできていますよね!

あんまり今更あれやこれやと4年間について言及すると記憶を改変して、美化してしまうのでこれぐらいの感想のほうが自分のなかでちょうどいい気がします。

 

こじまの座右の銘人間万事塞翁が馬なので!

 

これからもこの壁打ちブログは気ままに続けていきます。

 

それでは!

 

うおーっ!片付けねばー!

We should talk anymore

こんにちは。こじまです。

 

3月ですね。

そして通算15年ほど住んでいるお家で寝て起きてをするのがあと1ヶ月を切りました。

東京に行く実感が微塵もありません。笑

 

ところで"批判"ってそんなに良くないことなのでしょうか。

このブログでは何度か書いた覚えがあるのですが、こじまのなかでは"批判"と"非難"は全く違うものです。

 

人はみんな違います。同じのようで同じでないことがたくさんあります。

さらに面倒なのが、使う言語が同じだと余計に"わかるっているようで実はわかっていないこと"になかなか気がつきません。

考え方が違う、正しいと思うことが違うなかで"いい塩梅"になる結果や方法を導き出すために、実は見えていないことを見るために"批判"が必要なのです。なので"疑問"も"批判"の仲間です。

 

その一方で"非難"とはただ相手を攻撃するためだけの行為で、その先に求めるものは何もないのです。

 

わたしは元来議論が好きな人間なので、"批判"することに抵抗がないのであまり気がつかないのですが結構労力がいるんですよね。

「こうじゃないの?」とか「なんで、そうなん?」とか言われると自分の考えを否定されて"非難"されている気分になってしまいますよね。

そういうときはそういうこと言ってる相手も何かを良くしようと思って発言しているのだと頭の隅の隅のほうで考えてみてください。

その人の指摘が自分が受け入れられないと思うのなら、そのことを相手にその場で口にして伝えてください。間違ってもSNSなんかに書き込まないでくださいね。それこそ、いつの間にか"批判"が"非難"になって人間関係がこじれます。笑

 

こじまが言いたいことは"批判"は会話のツールのひとつです

それとガンダムUCという作品のなかで好きな言葉の中に

『世の中のことすべては善意から始まった』というのがあります。

(この言葉の詳しい経緯は『機動戦士ガンダムUC EP4:重力の井戸の底で』を観てね!)

 "批判"だって何かをより良くしたいという想いに起因するのです。

自分自身のことや生活だったり。はたまた世界とか社会とか。

今の現状から何かしら変えたくて、今を批判して。 

 

「わたしはここをこうしたらもっと良くなる気がするのに」、「もっこういう世界になったらいいのに」という善意から"批判"は生まれるのです。もしかしたら、それはエゴになるかもしれないけれども、"批判"そのものを否定したらこの世は闇です。

"批判"することに資格はなく、誰しも"批判"する権利を持っているのです。批判することをためらっていては、現状維持という名の自己満足とも取れることもあるかなと思います。

 

なのでわたしは"批判"をしないことは何も見ようとしない、何もしようとしないことと、ある意味で同義だと思います。(強気)

わたしはエスパーじゃないので、言わなきゃわかんないことってたくさんあるって思います。だからこそ話さないといけないと強く感じています。

だからわたしは疑問に思ったことには「なんで?」と言うし、おかしいと思ったことや嫌なことも「それはおかしい」と言う。それから相手の考えも聞いてみることにしています。

 

けども、そんなことを言っときながら"意見を譲ること"はこじま、めちゃ苦手なんですよねー!はははーっ!

「わたしの考え方は!絶対っ!譲れないっ!うおー!」になりがちです。

もう少し自制はしたいなと思います。笑

 

あとはあくまでもわたしは"批判"をすることにかける労力に抵抗感がない人間だから、こういう思考なだけで世界中がこういう考え方になればいいとは思いません。

 

でもまぁ、第一印象が最悪でも話してみたら違ったというのと同じように"批判"もぜひもう少し気楽にしてみてください。 

また"批判"をすることと同じようにに嬉しいと思ったことは嬉しい、好きなものは好き、ありがたいなと思ったことはありがとうと表現しようと思います。

 

ま、とにかく画面にばかり向き合っていたり、特定の内輪だけで固まるのではなく、いろんな場面で自分の気持ちや考えを相手に伝えようとする姿勢が大事だとこじまは伝えたいのです!経験も知識ですから、いろんな人と話すほうがこじまは好きです。だからいろんな人の考え方を知りたいから"批判"を会話のツールに使っています。

 

 それでは!