こんにちは。こじまです。
未だぬくぬく実家生活をエンジョイ中です!
ですが巷はウィルスの話題で持ちきりで、無事に東京に戻れるのかちょっと心配になってきます。
それとに、あっという間に修士課程2年生になってしまいやるべきことが現実味を帯びてきたので、だんだん「ヤバイ…!!」と思いはじめています。
(研究とか研究とか研究とか…ひーん)
さてさて、去る3/8は"国際女性デー"(International Women's Day)でした。
"フェミニスト"、"フェミニズム"という言葉がここ2,3年でメジャーな言葉になってきたこともあってか、ハフポストとかでちらほらと色んな記事がでていました。
興味がある方はぜひ一読を。
この手の話は「なんじゃいな」と思う人も多いので、まずは言葉の確認からです。
Wikipediaさん曰く
フェミニスト(英:Feminist)は、社会における伝統的な女性概念による束縛からの解放を唱え、女権獲得・女権拡張・男女同権を目指すフェミニズムを主張する人の事。日本語では、女性解放論者、女権拡張論者、女権論者、婦人解放論者と称されることもある。 フェミニスト - Wikipedia
フェミニズム(英:feminism)又は女性主義(じょせいしゅぎ)とは、性差別を廃止し、抑圧されていた女性の権利を拡張しようとする思想・運動、性差別に反対し女性の解放を主張する思想・運動などの総称。男女同権運動との関わりが深い。
だそうです。
正直なところ、
何が"フェミニズム"だろうと
誰が"フェミニスト"だろうと
こじまはどうでもいいです。
(ババーン!!!)
"フェミ"は怖いって言われるみたいな話とか、「みんな、"フェミニスト"だろ!?」みたいな話とかを聞きますが、「だから何!?」って感じです。
こういう書き方したらネットの海でごうごう燃えそうですが、これがわたしの素直な気持ちです。
あくまでも研究とかでの定義を度外視した実生活においての感覚の話なので、どうか怒らないでください。
こじまがこう考えるのは、こじま家には"フェミニズム"という言葉がなくてもこの手の話し合いができることが"普通"なのと、わたしが活動家や啓蒙家の役割があまり得意じゃないからだと思います。
小さい頃から母は「女の子はガラスの天井がある」とわたしに言い続けました。
まぁ、母がどんな人なのかを話すと長くなりますし、母から聞いたこととほぼ合致するので母の半生については『82年生まれキム・ジヨン』を読んでください。(丸投げである)
今思えば子供に「なんちゅうことを話を聞かせとんねん!?」と思わなくもないです。笑
父は土日の買い出しと料理を担当していたので、こじま家ではあまりジェンダーによる役割分担はされていませんでした。
そんなこじま家ですが、母はいつも5歳離れた弟には何も言わないで、わたしに家事の手伝いを頼んでいました。わたしだって遊びたいのに。
はじめの頃は「あなたが○歳の頃にはお願いしなかった」という理由に納得していましたが、弟が10歳くらいになっても変わりませんでした。
そして、わたしにとっての理不尽に耐え兼ねたある日、ブチ切れました。
「なんでわたしにばかり手伝いを頼む!?おかしない!?!?」
「わたしが"女の子"やからか!?」
「いつも、わたし対してに言うことと違くない!?!?」
「性別と年齢以外の納得できる理由を説明してくれや!!」
いやー。このときは本気で喚きましたね。笑
こういう風に騒ぐことが許されるこじま家、寛大です。(そんな実家がわたしは大好き)
話し合いの末、母は弟にも手伝うように声かけるようになりました。
結局のところ頼まれても弟は「おん」とか「あー」といって5回に1回くらいの手伝うくらいなので、手伝う比率はあまり変わってません。
ですが、わたしは納得しています。わたしと弟が同様に扱われるようになったので。
それに弟も以前よりは手伝うようになったし、わたしも手伝った分のリターンはきちんと受け取っていると感じるようになったからです。
このブチ切れエピソードはほんのこじま家での一部分でしかありませんが、おそらくわたしのやったことは"フェミニズム"に基づく"フェミニスト"の活動そのものです。
しかしながら、この一連の出来事に"フェミニスト"かどうかや"フェミニズム"という言葉は介在していません。それでも話し合いはちゃんと成立したのです。
だから、わたしは"フェミニスト"を名乗りません。
それは名乗る必要性を感じないから。
わたしにとって自分が「なんで?」「おかしいくない?」と思うことをぶつけて、お互いの"普通"をすり合わせることに"フェミニスト"かどうかなんてどうでもいいのです。
"フェミニズム"も"フェミニスト"なんてのも、ただの記号でしかないです。
活動や思想に名前をつけることによるグループ分けと定義づけは連帯を生むけれども、人々を一枚岩にしてしまう気がします。良くも悪くも。
(率直に言うとわたしは"フェミニズム"に賛同するときもあるけれど、「なんだかおかしいな」と思うときもあります)
本当にジェンダーギャップがなくなった世界は"フェミニズム"とか"フェミニスト"なんて言葉は必要のない世界だとわたしは思います。
分類する言葉が必要かどうかは女性に関すること以外のしがらみにも言えることではないでしょうか。
声を大にして「世界を変える!」があまり得意じゃないわたしは自分が「むむむっ!?」と思ったら話をして、相手の考えを聞いて、考えをアップデートして周囲の世界を変えるくらいでいいです。
"フェミニズム"的な思想を伝播する役割は、そういうのが得意な方にお任せしたいと思います。笑
こういう価値観があることを共有する手段を強いて挙げるならば、『82年生まれキム・ジヨン』と『彼女は頭が悪いから』を読むことをおすすめします。
『彼女は頭が悪いから』は性別関連の問題のほかにも学歴主義とか階級についても考えられる本で、わたしは好きです。
あとせっかくなので思わず「は?(イラッ)」と口にしてしまった、こじまにとっては意味不明だったコラムも共有しておきますね☆
(このコラムを読んだ他の人の感想が気になります)
それでは!
私たちの社会には、自己と他者、国境、民族、宗教、ジェンダーなど様々な境界が存在するが、それらは実際に線が引かれているわけではなく、何かと何かを区別したり、あるいは差異化を図るために概念や制度として人間が作り出したものだ。境界は時に強固な壁として立ちはだかったり、それが弱まったりぼやけたりする中で、関係は絶えず変化してゆく。事物を区分する境界は、時に乗り越えることが困難であり、時に不可能なこともある。一方で、境界の存在ゆえに守られているものもあれば、境界という線引きがあるからこそつながりを確かなものと認識し、相互の濃密な結びつきが生まれる可能性もある。私たちは、境界があることの是非よりも、こうした境界の存在を自覚することで、そこで起きている/起こるであろう関係とその未来について考える必要があるのだ。
金沢21世紀美術館「現在地:未来の地図を描くために[2]後期」 境界