こんにちは。こじまです。
バイト先の友人と池袋に映画『ギヴン』を観に行きました。
以前、ここでもハマっているといったBL漫画を原作にしたアニメです。
BL作品に関する話題ですが、ある種の偏見は取っ払って、読み進めて欲しいと思います。そんなちっぽけなスケールの話じゃないので、『ギヴン』は広くいろんな人に知ってもらいたい作品なので。
まず映画『ギヴン』におけるあらすじです。
キヅナツキの同名BLコミックを原作にフジテレビの「ノイタミナ」で放送されたテレビアニメを、フジテレビによるBLに特化したアニメレーベル「BLUE LYNX」の2作目として劇場アニメ化。高校生の真冬と立夏の切なく淡い恋を描いたテレビ版に続き、バンドの大人メンバーである春樹、秋彦、雨月の苦く熱い恋を中心に描く。高校生の上ノ山立夏は佐藤真冬の歌声に衝撃を受け、中山春樹、梶秋彦と組んでいるバンドのボーカルとして真冬を加入させる。ライブを成功させ、バンド「ギヴン」として活動を本格始動する中で、立夏は真冬への思いを自覚するようになり、2人は付き合いはじめる。一方、春樹は長年にわたり秋彦に恋心を抱いていたが、秋彦は同居人のバイオリニスト、雨月との関係を続けていた。
映画.com作品紹介より<映画 ギヴン : 作品情報 - 映画.com>
お互いが同じ時間に同じ作品を観ているのに、感じたことや共感することがそれぞれ全然違いました。
友人は秋彦に共感していて、わたしは雨月に共感しました。
こうした違いは不思議で、おもしろいです。
映画を観終わった後、しばらくは気持ちがいっぱいいっぱいで口数も少ないままに中華料理屋さんに入りました。(ちなみに、こじまは映画終盤ぐずぐずに泣きながら飲みかけのコラボドリンクすすってた)
そこで感想を言い合いながら「このシーンはこう読み取った」や「なぜそう感じたのか」をこんこんと語りました。素面で。笑
ここに書きたいことは山のようにありますが、今回は秋彦と雨月の"別離"に焦点を当てたいと思います。
『ギヴン』第5巻登場人物紹介より ©️キヅナツキ・新書館
秋彦と雨月の関係がこじれにこじれているキーワードは「"別離"の捉え方」だと考えます。
この2人にとっての"別離"という同じ事象・言葉を使っていても全くもって感覚が違うから雨月は秋彦を切り捨てられないし、秋彦は雨月を諦めきれない。そんでもって絆し絆されのぐずぐずの泥沼です。
秋彦にとっての"別離"は雨月がそばにいることで常に感じる音楽に対する劣等感のせいで、音楽への情熱が薄れてしまった。けれども、雨月のことは好き(広義)だから側にいたい。
そんななか、自分の中に新しい音楽をやりたいという気持ちがでてきたから雨月とは別れないと向き合えない。
そんな秋彦にとっての雨月との"別離"とは"中間セーブポイント"としての感覚だと読み取りました。
雨月との関係を終わりにすることは雨月からもらった感情・思い出をすべてひっくるめて中間セーブして、次のステージに進むけどこれまでに培ってきたものは経験値として次につなげていきたいという気持ちなのかなと。
この秋彦のなかで"別離"="中間セーブポイント"が確立されるまでになんというか、こうすったもんだがあるんですけどね。(もはや、つべこべ言わず原作読んで)
一方、雨月にとって秋彦との"別離"は秋彦と恋人として一緒に過ごした時間のなかで築き上げてきたものたちが"もう要らないもの"として"もう終わってしまったこと"として消えてしまう感覚なのだろうなと。
だからこその秋彦が居候していた雨月の家を出ていくことに対して、強い拒否感を示し、秋彦に『ヴァイオリンを捨てるのか』という言葉なんだと思います。(おそらくヴァイオリン=雨月、ドラム=新しい好きな人の構図)
自分と同じ時間を共有したヴァイオリンを捨てて、ドラムという別の道にいってしまうことは秋彦と一緒に見たもの・聞いたもの・感じたものたちをもう精算してしまって、要らないものとして、どこかに押しやって次に行きたいことだと。
そう言われているに等しかったんだとわたしは思います。
けれども、音楽も秋彦と違うベクトルで自分にとって代え難さをもった好きなもので捨てられない。
だから関係を終わりにしたいと口火を切ったのは雨月だけど、秋彦を振り切れないのも<"別離"=リセット=何もなかったことになる>の思考のせいなんだろうなって。
そんでもって、秋彦も雨月も言葉が!表現が!圧倒的に!!足りない!!!
はぁーーー!知ってる!!人間って心底不器用って知ってる!!!!
人間はエスパーじゃないのだから考えていることや想っていることは口に出して伝えないといけないなと痛感します。
いや、もう本当に『ギヴン』4巻で語られる雨月と秋彦のマグカップいらない事件は読んで欲しいです。「とても大切なのに、大切にしたいのに、うまく大事にできない」(めちゃ複雑感情)が詰まっています。要はしんどい。
このことはこの2人の物語の少し後に登場する上ノ山立夏の姉が弟の立夏が同性の真冬と付き合っていることで弟が世間から奇異の目線で見られることを心配するあまり思わず「おかしい」と言ってしまったことに対して「傷つけるんじゃなくて、わかってあげたかった」という想いを吐露することもそうだと思います。
そういう"別離"の捉え方の違いと言葉のやりとりのなさがずるずると秋彦と雨月の不毛な関係性を作り上げてしまったんだと思います。
いや、本当に言葉って難しいです!
嫉妬に憎しみ、いろんな想いを混ぜ込んだごちゃごちゃな歪な感情もいろんな愛情も一度に表現することができる"好き"って言葉は万能だけれども、如何せん短すぎますよね。
つくづく思いますが関係性が変わっていくことって難しいですね。
年齢を少しずつ重ねるにつれて10代や20代前半を一緒に過ごした人たちがそれぞれの道に分かれていくにつれて否応なしに関係性も変化していくことを、ここ最近よく感じます。
ま、でもそもそも雨月の姿をこういう風に感じるのは自分が"別離"をそう捉えているからこそなんですよね。
わたしは"別離"が嫌いです。関係性って目に見えないので、本当にあったのかをたしかめることができなくて、自分の"そこにある"という感覚に頼るしかなくて、ここにいる自分はその関係性が折り重なってできているのに、その人がいなくなると、そもそも在りもしなかったんじゃないかという感覚がやってきて、すごく怖くなります。
その関係性が今の自分を構築しているのに、"別離"はまるでなかったみたいにしてしまう。
独りは寂しいから"家族"という簡単にほどけない関係性のなかに生きていたい。
今の"家族"はいつか終わりがくるから次の"家族"が欲しい。
けれども、その前段階にあたる"恋人"なんていうちょっとしたことで"別離"が訪れる関係性なんて。ましてや、今のままでも固められている関係性をそんな脆い関係性に上塗りすることに意味を見出せない。
矛盾していることはわかっているけれど、それ以上に大切な人との"別離"が嫌なんです。どんな形の"別離"であっても。
始まりがなければ、終わりもこない。
それだと前にも進めないから、いけないことだとわかっていても、そう考えれば楽になる自分もいてぐちゃぐちゃです。
だからこそ、雨月が秋彦が家に帰ってこず、雨月のもとから次第に離れていっている感じていることを真冬に話したときの
「でもやっぱりやだな、この部屋に詰まっているものが全部消えちゃうのは」
「何かひとつ残らないかな」
「二度と元に戻らなくても 遠くにいても 音楽だけは残ればいいのに」
に対して漫画を読んだときも、映画を観たときも感情移入をすごくしてしまいました。
ここまで勢いで書いてきました。
自分、重すぎでは?笑
友人との感想の違いはこういう自分がどういう定義をしているかや、これまでの人生経験に左右されるんだなと改めてはっきりわかりました。
「人間も人生も難しいね〜」とわたしは酸辣湯麺をすすりながら、こんなことをバイト先の友人と語り合いました。
ちゃんちゃん。
ちなみに映画は主題歌と劇中歌がドンピシャで鳥肌がぶわわわーってなる方面でおすすめです。ですが、登場人物の感情の機微や背景は漫画の描写が詳細で繊細で好きです。
さて最後にその主題歌と劇中歌を、わたしに刺さったフレーズを添えて終わります。
それでは!
センチミリメンタル 『僕らだけの主題歌』 Music Video
もう戻れないね
僕は行くよ
ねぇ、見ててよ
あなたより大事なもの 探してくるよ
何よりも大切なあなたのために
これまでじゃなく これからだよって
分かってる
眠れなくても 夜は明ける
繋いだ手も やがて離れる
途方にくれて 泣き喚いても
やがて泣き止む
君がいなくても 生きてゆけるけど
愛されなくても 君に会いたい