こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

外野のA

こんにちは。こじまです。

 

毎日くもりか雨ばっかりでやる気がねこそぎ持ってかれてしまいます。

楽しいことを考えていきたいと思います!ただ今回の話もどっちかというと楽しくない話題なのに言うかって感じですが!笑

 

外野の人間が発言をしたり、批判したりすると「いやいや、お前は外野の人間じゃん」と一蹴されることってないですか。まぁ、当事者が1番最前線にいて、物事の是か否が人生の行末に大きく関わっているのは明らかなんで、それでいいのかなと思うことがたびたびあります。(たしかに外野が口とか手を出してくると鬱陶しいこともよくわかる)

 

なんか自分はいろんなことに中途半端に当事者だなってよく感じます。

この前に書いた芸術文化についても、ジェンダーのこととか。自分が渦中にいることが疲れることもあって、むしろ自分が絶対に当事者だと言い切れるモノってたぶん、あまりないです。

そんななかSNSをはじめとしたデジタルツールが発展して、外野の人間がとやかく言いやすくなった世の中でどういうスタンスだったり、どういう想いで生きていけばいいかなとたびたび思います。

 問題や事件の当事者はよく描かれるけど、その問題の外野にいる人間の描写ってわたしの知る限り見たことない気がします。

そして、外野だけど考えることはたくさんあるっていう厄介な性格の人間が自分です。笑

 

その最たる事例が「自分の出身地は"橋のない川"がある街だということ」です。

こじまの出身地は確か全国でみてもそうした地域が多い部類に入ります。

 

自分の街はそういう街だって教えられて、でも自分は問題の当事者ではないからどういう立ち位置にいればいいのかなって。

けれども自分はそこに住んでいるあっち側の人間でもないし、自分のルーツに関係ないし、そのことについて自分を他人から貶められたこともない。だからこそなのか「うーむ」と思ってばかりです。

  

最近はあんまり気にしてない、というかよくそのことを知らない人も街に多く入ってきているので正直うやむやになってる感はあります。

きっと大人になってからこの街に来た場合だと、きっとおしゃんなイメージばかりでてくる気がします。

 

今でもそのことを勉強する機会があるのかは知らないけれど、「街のあっち側の人間とこっち側の人間は違う人間であるのが当然だったこと」をわたしは少なくとも知っている。

自分が主に生まれ育った街はそういう街だと知っているし、そうした地域がまた別の問題の根っこになっていることも知っている。

けれども、わたしは完全なるあっち側の人間ではないから「それはいけないこと!」と声高々に言うことがなんだか偽善っぽくてどうしたらいいのだろうと思ってばかりいます。

当事者でも完全なる外野の人間でもない<とある住民A>でしかないので、何が自分にいえるんだろうとよく悶々しています。

 

悶々しては「考えることが大事なのかな」というところにいつも落ち着いています。

誰か何かいい考えがあれば教えてください。笑

 

わたしは"あっち側"と"こっち側"の話は誰でも知っていることだとつい最近まで思っていました。意外と街をでてみるとそうでもないことを知って驚きでした。

 

覚えているのもしんどいけど、忘れることもまたしんどいよな〜って感じです。

さて、鬱々していても仕方ないので気分転換に録画した『魔改造の夜』を観ようかと思います。笑

 

www6.nhk.or.jp

 

それでは!

ライフプラン A to Z

こんにちは。こじまです。

 

あっという間に7月です。2020年も半分過ぎてしまいました。

本当なら来月はオリンピックを見に行っているはずだったのですが、どうなるんですかね…(返金も何もいってこないから逆に怖い)

この半年近くの引きこもり生活を通じて、こじまはいかに自分が外に行かないと死ぬタイプなのかがよくわかりました。

最近はデジタルツールの発展のおかげで家にいながら舞台やコンサート、美術作品も鑑賞できるようになりましたが、それは自分にとっては現場*1の代替にはならないと思い知りました。

 

さてさて、わたしの大好きな現場たちはこのウイルス騒動の煽りを受けて、否応なしに休業や公演中止に追い込まれました。この文章を読む人がだいたいの人がおおよそ状況は共有している気がするので詳細は割愛します。

 

www.huffingtonpost.jp

 

『「不要不急」なものは後回し』が当たり前になっていくなかで、芸術は「不要不急」としてみなされているといっても過言ではないと思います。

実際に芸術を享受する側にいるわたしの中では芸術に費やすお金の名目は遊興費ですし。けれども、その遊興費が明日のお米を買うお金になる人もたくさんいるわけで。

 

「芸術文化を後世に残すためにも」

「芸術分野で食っている人間が生活できるためにも」

といった文脈で主に芸術分野の補償を訴えているかなという所感です。

ですが、まぁ話は進んでいないわけで。

 

あくまでもこれはこじまの考えなのですが、政策を決める側の人間と芸術に近い側の人間では"文化"というものが全くことなるものとして捉えられている気がします。だからこそ、永遠に議論が並行線なのかなと。

 

例えてみるならこんな感じです。

 

政策側にとっての"芸術文化"⇒チェスの駒

芸術文化に近い側にとっての"芸術文化"⇒チェスというゲームの概念そのもの

 

もうこれぐらいの認識の隔たりがあるんじゃないかと思います。

政策側にとってチェスというゲームは経済や外交というもので"芸術文化"はそのゲームのなかの駒の一つのナイトみたいな感覚なので、たとえ駒を落としてもゲームは終わっていないしほかの駒で戦えばいい。みたいな。

けれども"芸術文化"に近い側にとってはチェスというゲームの概念が崩壊しようとしているのに「いやいや何言ってんの!?駒が生きるか死ぬみたいな話じゃないよ!?」みたいな。

 

うまく文章で説明できているかはわかりませんが、こじまはこんな感じに一連の流れで感じるズレを捉えています。

 

わたし個人としては"芸術文化"は月並みな表現ですが「なくてはならないもの」だと思います。それは"芸術文化"は人の数だけの"真実"を考えることができるからです。

 

芸術作品として存在しているもの、つまりは一つの作品は唯一無二の"事実"です。そこにどんな価値を見出すか、どんな想いを感じるかは人によって異なりますが、そこにあるのは確かに"真実"です。

人の数だけの"真実"があり、それぞれの"真実"について考えることはどういうことなのかができる空間というか空気感というものは、学校のテストみたいな正解・不正解のある世界ではできないことかなって思います。別に正解・不正解を決めることが間違っていることではなく、それぞれの"真実"を考えないことは、解答者の属性や背景は変化しているのにその正解は永遠にアップデートされないままなのは最大公約数の幸福を追求するうえでもズレが生じてくるという意味です。

(というか、歴史という学術領域もこの"事実"と"真実"の関係に似ていると思う今日この頃です。笑)

 

自分のなかの正解のアップデートの実例としては先日、ちょっと前に流行した(?)Official髭男ismの『Pretender』という曲の解釈がわたしとこじま母では全く違っていたことですかね。


Official髭男dism - Pretender[Official Video]

わたしは「振られる」曲だと思っていて、こじま母は「振る」曲というふうに解釈の不一致が。もうこれはわたしにとっては目から鱗でした。笑

 

あとは<音楽だけ聞いていたとき>、<はじめてMVを観たとき>、<もう一度MVを観たとき>、<解釈の不一致を知ったとき>はそれぞれ抱く感情が違うんです。MVの登場人物たちの感情や「こいつが本命かな」の描写への印象がもう毎回変わるんですよ。あー、もうわけわからん。(楽しい)

 

いや、もうこれは「なるほど!1+1=2なのか!」を知る感動とは全く違うんですよ!

「うわ!!ここからだと晴れてるけど、外では実は雨降ってた!なんなん、この天気!?笑」みたいな感覚の感動なんですよ!(これははたして文字で伝わるんか…)

 

音楽という"事実"を作った人間、MVという"事実"を撮影した人間に伝えたい"真実"(≒正解)がありますが、必ずしも受け手がたどり着くかもわかりません。しかもその"真実"を確かめたから何になるというのだ。

 

ご飯がいきなりおいしくなるわけでもないし、銀行の預金残高が倍に増えるわけでもない。

けれども自分が正解だと思っていた"真実"以外にも"真実"があることがわかると、キャパオーバーになりそうな精神に5cmくらい余裕ができるんですよ。

 

「いや、別にこの方法じゃなくても生きていけるわ」みたいな。

 

もっと自分にとっての息のしやすい"ここじゃないどこか"や"モノの見方"があること教えてくれるのが、こじまにとっての"芸術文化"なんです。

自分の中でのライフプランはAからZまであっていいんですよ!もちろんそれ以上でも!笑

 

そもそも"芸術文化"って点じゃないんですよ。音楽も美術も、デジタルもアナログも、古いも新しいも、ハイもローも全部全部繋がっているんです。

だから「芸術なんてなくても死なない」みたいに軽んじて欲しくないとこじまは思います。今自分がいる社会・空間・場所もたくさんの人の"ここじゃないどこか"を考えて、それが積み重なった結果、生まれたものなので大切にしてもらいたいです。

 

なんだか後半は謎なテンションで駆け抜けてきましたが、良しとします。笑

 

それでは!

 

 

(あ、前述の全部繋がっているという感覚は『知りすぎていた男』を観て『交渉人:真下正義』が観たくなったり、ゴッホみて日本画とか浮世絵がみたくなるみたいな感じです)

 

 

 

*1:コンサートや舞台などのイベントが実際に行われる会場のこと。界隈特有の言い方だと最近知りました。笑

これも私の生きる道

こんにちは。こじまです。

 

小難しいことばかり考えていても疲れるのでラフにいこうと思います。笑

以前にも書きましたが『ハイキュー!!』がめためた好きです。

17-wwannanext.hatenadiary.com

というか、前回『ハイキュー!!』について書いてからもうすぐ1年くらいになるんですね。体感的には半年くらいかなと思っていました。

さて今は作業しながら大画面でアニメをつけたり、「読みたい!」と思ったらすぐ漫画が読めるのでぬくぬくハイキューライフをしています。

そんな日々を送っていると時々「自分の思考回路は『ハイキュー!!』なのでは?」と思うことがあります。

 

今回は就活をするなかで感じた自分と「ハイキュー!!」の思考回路の近さについて書いていこうと思います。

 

就活をする過程で自己PRを考える機会が何度かあるなかで、こじまは「自分は"アイドル"だ」を押し出していました。<他人が自分に求めること>と<自分がやりたいこと>のバランスが取れて、いろんなことに広く関心を持つ柔軟性が自分の強みだと売り出してきました。

(↓"アイドル"の定義や「自分は"アイドル"」の詳細についてはこちらを参照ください) 

というか参照記事のなかで「いつか書く」って書いて2年も放置している内容があるやん…

17-wwannanext.hatenadiary.com

 

この自分の強みとしての柔軟性とは、烏野高校の春高バレー準々決勝の対戦相手である鴎台高校の星海光来と昼神幸郎の過去でのやりとりの中にあったものに近いなと。

 

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©️集英社古舘春一

左のツンツン:星海光来

右のウェーブマッシュ(?):昼神幸郎 

 

昼神幸郎は親兄弟がバレーボールをしている環境で育ちバレーボール部に入ること、バレーが上手くなることが"当たり前"のなかで昼神は迷うことなくバレーに打ち込みました。

中学生時代の昼神は体格もセンスもあってバレーは楽しくやれていたけれど、まだまだやることややるべきことはあると考えるタイプでした。

勝つためにはもっと自分が強くなればいいという想いからスランプで結果がでないチームメイトに対しても「"結果"がでないのは努力が足りないから。どこかで手を抜いたから。自分で諦めたから」と冷めていました。(ごめん。わたしも時々そう思ってる)

 

そうして生活していくなかで試合中うまくレシーブできなかったり、スパイクが決められないと自分の努力が足りないと自身を責めていきます。

ある日、ついにキャパオーバーになってしまい自分の手をコンクリートの壁に自分でザリザリザリと擦り付けて傷つけてしまいます。

 

そこで昼神は実はそんなにバレーが好きじゃないのかもしれないと気づいてしまいます。

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©️集英社古舘春一

 

それに対して星海はこう言ってのけます。

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©️集英社古舘春一

「じゃあ やめればいいんじゃね?」

「別に死なねぇ。やめたからってお前が身につけた強靭な筋肉は簡単にはなくならない」

「お前は今バレーは腹いっぱいなのかもな。あれだけガツガツやってりゃな」

 

別にやめたって、失敗したって死ぬわけじゃない。

それに自分が頑張ってきたことは簡単にはなくならない。

 

自分が好きなことだったからここまで努力を積み重ねられたことも、たくさんのものを手に入れたことも嘘でも幻ではない。

けれども"今"はそれもそんなに好きじゃないことだって、事実である。

 

いつでも始めていい。

いつでもやめていい。

いつでも戻ってきていい。

戻ってきても同じでなくていい。

前と違ってもいい。

 

自分はそう簡単には変わらないのだから、自分にとって大切で誰にも譲れないものであっても別に固執しなくて良い。

 

それに意外と「いつでもやめていいや〜」って思えると案外やめないし、なぜだか広く周りが見えるものです。昼神もそういっている。笑

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©️集英社古舘春一

 

自分の理想を手放してみるという選択肢が考えられることができる。

相手にわたしが思う"良い"を訴えかけることができる。

"結果"はわたし1人で作るものじゃないことを知っている。

そんなわたしは"アイドル"と面接でアピールしました。とんだ誇大広告である。笑

  

ちなみにわたしの中で就職をするということは、研究することを学術の場にいることを諦めることと同義ではないです。

 

<学術の場に身を置いておきたい><自分の食い扶持を自分の思い描く形で稼ぎたい>を両立することは如何にして可能になるのかを考えた結果が就活でした。

 

「どっちも選びたい」というこの選択はたぶん就職か進学かの二択で考えた結果よりも悩まなくていいことを悩むだろうし、今の自分が思っているよりも5万倍くらい大変だろうなと察しはついています。

けれども自分には「ここじゃないどこかがある」という実感を持てることはわたしを自由にしてくれると考えています。

これもまた半年くらい経ったらまた考えは変わっているかもしれないですが。

 

それはそれでいいのだー!

 

さて、ここまででお気づきだろうか… 

こじまの就活はブログの内容をよそ行きの文章や発言にブラッシュアップしただけともいえることを!笑

 

マジでぶっ飛んだことを書いたり言ったりしているのによく採用してくれたなとつくづく思います。ありがとう、御社。

  

 それでは!

 

ジェンダー企画に疲れています。

こんにちは。こじまです。

 

やるべきことはいっぱいありますが、ちょっと一区切りがつけそうです。

というか6月がもう半ばという事実が怖いです。2020年半分終わっちゃうじゃないですか!笑

 

さてさて、今日はちょっと前に話題(?)になっていた「美術館女子」について思うところを書こうと思います。

 書きたいことはいっぱいあるのに体が一つしかないものでもどかしいです。

(体って分裂しないですかね。笑)

 

↓「美術館女子」企画サイト

www.yomiuri.co.jp

 

わたしはネットでこの企画記事を読んでまず思ったのが「え、見にくい」でした。笑

美術に関することをPRしていくうえでこの見難さは致命的なのではと思いました。

 

そんな表面的なことはさておきです。

 SNSを中心に笑えるくらいに非難轟々で、なかなか擁護している声が見当たりませんでした。

 

この企画が目的としていることもわからなくもないですが、わたしとしては腑に落ちないなと。

納得いかないポイントとしては"美術館女子"というカテゴライズ"映え"の扱い方です。

 

"美術館女子"のカテゴライズについてですがまず「は?」です。

○○女子とか△△男子とかよく見かけますが、この呼称はどちらかというと今までどちらかの性別が独占(寡占?)的で入り込めなかったジャンルに足を突っ込みやすくするために生まれ出した呼称だと思っていたので、目的意図が読み取れません。

 

展示作品の傾向によって、訪れる男女比は異なると思いますが、美術館に足を運ぶ女性が圧倒的に少ないなんてことはないと思っています。

だからこそ、なぜあえてこの呼称を持ち出そうと思ったのかがよくわかりませんでした。

少しずつ新しい価値観も参入するようになってきたこのご時世にガソリンをぶちまけにくるのは、なかなかチャレンジングな行為だなと感じました。笑

 

カテゴライズは個を集団に組み込むことができるけれども、個と集団の境界線をはっきりされることにもなるので条件を満たさないものは弾き出すので発展や可能性などを狭めてしまう気がします。

そのへんのカテゴライズの弊害については『レミーのおいしいレストラン』と『ズートピア』をぜひとも観てほしいところです。

youtu.be

youtu.be

この2作品はカテゴライズということを考えるうえで、めちゃめちゃ参考になるとこじまは思っています!

(あと話は逸れるのですが、ディズニー作品は"上書き"が本当に上手いなと。いい意味でも悪い意味でも)

 

次に"映え"の扱い方についてです。

 

確かに現状として「美術館行こうよー!」と誘っても絵画をはじめとした美術作品に興味のない子には断られることはままある事です。なので"映え"を前面に押し出すことで、これまで訪れなかった来館者が増えることもよくわかります。

 

それが1番よくわかるのが"映え"スポットとしても認識され、来場者が途切れない金沢21世紀美術館ではないでしょうか。

あそこは"映え"感性に比重を置いて「美術館にいる私」が大切な人よくいう芸術感性が刺激されることに比重を置いて「芸術作品」が大切な人が入り乱れている空間だと思いました。(よくいう芸術感性の定義についてはここでは割愛します。ここでは美術館によく行く人ってイメージくらいに捉えてもらえたら)

 

なんだか「美術館女子」の企画は「"高尚な"芸術は"映え"にもなるという価値観」と「"高尚な"美術の世界に触れ感性を養おうの価値観」のすり合わせがよくわからないまま進んで、一方的に"映え"の価値観を貶めただけな気がします。

 

"映え"の感性だって、美しいと感じる感性の一つだとこじまは思います。

"映え"は時々他人に迷惑をかけるところがクローズアップされがちですが、どの価値観だって行き過ぎは迷惑でしかないので"映え"だけを悪者にするのはいかがなものかと。

(本音をいうと、あまり"映え"の感性は得意ではないですが…笑)

 

もう美術館が高尚なものとか、"映え"スポットだと思っている人は一度でいいから『ブルーピリオド』を読んでほしい。

afternoon.kodansha.co.jp

 

なんなら2巻の美術館で「買付けごっこ」をするシーンだけでもいいから読んでくれ。

以下その抜粋です。

 ©️講談社・山口つばさ『ブルーピリオド』2巻・p74〜77

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というか「芸術は生活必需品じゃない」と思っている人にも『ブルーピリオド』は読んでほしいです。でも実際にそう思っている人はなかなか漫画を読んでもらえないのが口惜しいですね。

 

あとは『ブルーピリオド』については個人的におもしろかった記事もここで共有しておこうと思います。

 

nlab.itmedia.co.jp

gendai.ismedia.jp

 

なんだかだんだん『ブルーピリオド』の宣伝と化してきました。笑

 

これは余談ですがこじまは『ブルーピリオド』にハマりすぎて電子版と紙媒体の両方で既刊のすべてを持っています。(デジタルで読むのとアナログで読むと感触が違うんですよ!と言っておく)

 

それでは!

 

 

 

 

 

 

 

冴えない世界の育て方

こんにちは。こじまです。

 

相変わらず家にいます。笑

わたしはずっと家にいるのに、なんだか世の中は目まぐるしく変わっていっている感覚がします。

 

状況がというよりは消費するものがって感じもします。

あとは単純にどれも楽しい話題じゃないし、個人的に「?」が浮かぶことが多いです。

 

なんだかそういうのばかり見たり聞いたりしているとぐったりしてきてしまいます。

ここ最近で1番大きな話題になっているのは人種差別ですかね。

 

自分の扱う領域が近い部分なので、ちょこちょこ情報を追いかけています。

たしかに社会システムとして問題があるのは改善すべきだし、今まで見てこなかった隔たりは可視化されるべきだと思います。

 

けれども今その問題を問題だというのであればもっと見るべき問題があちこちに、自分のすぐそばに、今まさに転がっていることにも目を向けて欲しいな〜という気もします。

 

あとは人種差別的なものをすべて目の前から消し去れば解決するような問題なのでしょうか。

奴隷貿易を行っていた人の銅像を撤去したり、人種差別的発言をした人の銅像を川に突き落としたり。

彼らが行っていたことはたしかに今現在の基準で考えれば、許されないことですよね。

けれども彼らの功績によって街が発展したり、成長してきたこと自体もその像が目の前からなくなったら忘れてしまいそうです。

 

風と共に去りぬ』が人種差別的なシーンがあるから配信をいったん取り下げられたのも疑問でしかないです。(というか、どうあがこうがこの世の中に誰も傷つけないエンターテイメントなんてない)

 

自分たちの街が、自分たちの「文化」がどういうものを礎にしてきたことに目を向けないことも問題だと思います。それは後悔や反省を消すことと同義な気がするからです。

(まぁ、後悔や反省はいつまで、どの世代まで背負う必要があるなどいろいろ別のことが山積みですが)

 

日本だと京都の九条あたりの団地を潰すのに似ている気がしなくもないです。

あとはなんで大阪府の南のほうで油かすが伝統的な食べ物になっているのとか。

 

怒ることも大事だけれども、起きてしまったこと・やってしまったこととどう向き合うかも同じくらい大切なのではないでしょうか。

どうしてそうクロかシロしかないんだという気分です。

 

ムーブメントを十把一絡げにみると見失う、実際には問題の上澄みをさらっているだけの側面もあるような気がします。

 

あとはこの一連の"怒り"がコンテンツとして消費されるのではなく、世の中の動きが"より良い"世界に繋がることをただただ願うばかりです。

どうするのが"世界"にとって1番いい方法かなんて人それぞれだし、難しすぎです。笑

 

『すべては歴史的遠近法の彼方で古典になっていく』

わたしの大好きな本に書いてある言葉です。

今見ている出来事はまさしく数年後には古典になっていくんだなと、ぼんやり画面越しに考えます。

 

ぼんやり見ているわたしはもしかしたら冷ややかかもしれませんね。

どうしても「そこに怒るなら、もっと怒るべきことが今までも近くにあったじゃん!」と思ってしまう自分がいるもので。笑

 

それでは!

"君"の姿は絵に似ている

こんにちは。こじまです。

 

先日は「きえええい!」とむしゃくしゃしていたので、いつもとテイストが違う文章を投稿しました。

勢いだけで、深夜に1時間くらいという短時間で書き上げました。文を書くとすごくスッキリします。

(唐突に気恥ずかしくなったので、いつもしているFacebook投稿は消しちゃったんですが、ブログ記事そのものは消してないです。なので、もし興味のある方は一つ前の記事へどうぞ。笑)

 

最近は就活も終わった(と思いたい)ので、1日の大半を修士論文のことを考えて日々生きてます。ですが、「何の成果も得られませんでした!!」な日々過ごしています。

 

うだうだしていると、段々と「研究って絵を描くことに似ている」気がしてきました。まぁ、こじま"あるある"の突然です。

 

絵を描くなかでも、油絵を描くことに研究は似ているなと。

 

こじまは絵を完成させるには三段階があると思っています。

 

①テーマ決める(何描くか)

②構図決める(どう描くか)

③完成するまで描く

 

ちなみにわたしは、②のところで激しく悶えています。

構図が全く決まらないです。

ちゃんとテーマが伝わる構図が浮かばない。うががが。

 

何をこの絵で表現したいのかが、きちんと伝わるかって構図がすごく大事で、その次に表現技法かなと。何色を塗るとか。

 

研究もテーマを決めて、どういう見取り図で書いてって感じで、あとは書いて書いて。

 

次に油絵と研究の話ですが、まず油絵具は水彩やアクリル絵の具なんかとちょっと違うところがありまして。

 

油絵って色が簡単に混ざらないんですよ。

だから一度、色を置いてから重ねてもぐちゃっとならないんです。

(ハイパーざっくりした説明)

 

なので、油絵は絵の具を重ねて立体的にも描けるし、重ねたところを削ったり、塗ったところを油で溶かしたりとか、いろいろできておもしろいんですよ。(また油絵描きたいな。でも画材高いし、そんな場所もない)

 

研究も肉厚にしたいところをモリモリ書いたり、ここは書きたいけどすこし削って次の研究に繋げる形にしたほうが収まりがいいとかが油絵に似ているなと感じます。

 

そしてなにより、油絵は絵の具が乾くのがすっっごく遅いんです。

 

研究も本当に完成までに時間がかかる…!

修正して、書いて。修正して、書いて。

 

この研究はいつ完成するんや…という気分にまだ構図作りの段階から悩まされています。笑

 

あとは完成してからも、「この絵(研究)はいいものなのか…」という感覚に苛まれるのも共通点だなと思います。

 

わたしの場合、もうずっと自分の絵(研究)を見ていたり、考えたりしていると"慣れ"みたいなものがでてきて、わからなくなるんですよ。

 

言うなれば「"いい"作品とは…(虚無)」みたいな感じです。笑 

なんか唐突に褒められたりして「おおっ…これはいい作品なのか…」とようやく思えます。

 

ああっ…なんだかあとは人に進捗を見せる時とか、講評もらうときとかがすごく嫌だったりするところも同じだなと思えてきました…

 

いやもう、これは『研究=絵』ですね。はい。

 

とりあえず今は早く構図を決めて、現状を打破したいです。

ううっー。締め切りが憎い。

 

とにもかくにも、頑張ります。笑

 

それでは!

 

 

 

 

※※がいを求めて生きているの

自分は今すごく『鈍』してる。

それは環境のせいかもしれないし、自分が『貧』しているせいかもしれない。

 

とりあえず、自分のすべてが『鈍』く感じる。

自分の作るものの色が霞んでいる。

 

自分がつまらないもの作ってるのも、「とりあえず」で誤魔化していることも、それがバレていることも全部全部全部かっこ悪い。

 

"いいもの"が作れない、楽しいものを作れない自分が嫌で、すごくすごく悔しい。泣けるくらいに。

 

"いいもの"ができそうな兆しは、考えが溢れているけれど、澄んだ感覚。

はちゃめちゃにしんどいのに、ゾクゾクして、笑えてくる瞬間。

 

ドーパミンがダバダバの、あの堪らない瞬間。

その瞬間が恋しい。

 

思えばここ2、3年のうちで最高に「キテる」と感じたのは大学院入試かもしれない。

 

論述試験の問題用紙をめくった瞬間に「受かる」と思った。なんの根拠もないのに。

 

今大学院生をしているからこそ、こんな風に言えるし、自分なんて大したことないし、本当に運が良かった。

 

あの論述試験の点数は何点だったか知らないし、書けていると思っていても実際は足切りスレスレだったのかもしれない。

 

けれども、あの論述は書いていて最高に楽しかった。

 

自分が今作っているものにその感触がないのが死ぬほどもどかしいし、死ぬほどつまらない。

 

その理由が何かわからないけれど、ここから抜け出すには考えて、手を動かすしかないのはわかっている。

 

本読んで、考えて、書いて、ゴミだなって思って。

消して、本読んで、考えて、書いて、またゴミ。

 

しんどい作業を何回繰り返せば、"いいもの"ができるのか知っていれば気が楽なのに。

 

締め切りばかりが近づいて嫌になる。

 

けれども期限内に、自分の求める刹那がくるまで続けるしかないのだとよく知っている。

 

自分が『鈍』ってくると、高3の県民大会の決勝レースで、誰かが誰かに向けて言った「ここで終わるんか」だけが鮮明に聞こえたのを思い出す。

 

あの時期の自分はある意味、今に似ている。

 

あの時、実感してからやめられない甘美な瞬間がある。

 

スイッチが入った瞬間。

達成した瞬間。"勝った"瞬間。

褒められた瞬間。

 

やるかー

その瞬間が手に入るまで、やるかー

 

明日というか、今日は久しぶりに外にでよう。

もう日差しはこんなにも夏なのだから。

 

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てかほんま自分、めっちゃマゾヒストやな。

 

 

まぁ、そんなんとっくに知っとるわ。