こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

昨日は彼も恋してた

こんにちは。こじまです。

 

バイト先の友人と池袋に映画『ギヴン』を観に行きました。

given-anime.com

以前、ここでもハマっているといったBL漫画を原作にしたアニメです。

17-wwannanext.hatenadiary.com

BL作品に関する話題ですが、ある種の偏見は取っ払って、読み進めて欲しいと思います。そんなちっぽけなスケールの話じゃないので、『ギヴン』は広くいろんな人に知ってもらいたい作品なので。

 

まず映画『ギヴン』におけるあらすじです。

キヅナツキの同名BLコミックを原作にフジテレビの「ノイタミナ」で放送されたテレビアニメを、フジテレビによるBLに特化したアニメレーベル「BLUE LYNX」の2作目として劇場アニメ化。高校生の真冬と立夏の切なく淡い恋を描いたテレビ版に続き、バンドの大人メンバーである春樹、秋彦、雨月の苦く熱い恋を中心に描く。高校生の上ノ山立夏は佐藤真冬の歌声に衝撃を受け、中山春樹、梶秋彦と組んでいるバンドのボーカルとして真冬を加入させる。ライブを成功させ、バンド「ギヴン」として活動を本格始動する中で、立夏は真冬への思いを自覚するようになり、2人は付き合いはじめる。一方、春樹は長年にわたり秋彦に恋心を抱いていたが、秋彦は同居人のバイオリニスト、雨月との関係を続けていた。 

映画.com作品紹介より<映画 ギヴン : 作品情報 - 映画.com>

 

お互いが同じ時間に同じ作品を観ているのに、感じたことや共感することがそれぞれ全然違いました。

友人は秋彦に共感していて、わたしは雨月に共感しました。

こうした違いは不思議で、おもしろいです。

 

映画を観終わった後、しばらくは気持ちがいっぱいいっぱいで口数も少ないままに中華料理屋さんに入りました。(ちなみに、こじまは映画終盤ぐずぐずに泣きながら飲みかけのコラボドリンクすすってた)

そこで感想を言い合いながら「このシーンはこう読み取った」や「なぜそう感じたのか」をこんこんと語りました。素面で。笑

 

ここに書きたいことは山のようにありますが、今回は秋彦と雨月の"別離"に焦点を当てたいと思います。 

f:id:u_w_wanna-next:20200830024604j:image『ギヴン』第5巻登場人物紹介より ©️キヅナツキ・新書館

秋彦と雨月の関係がこじれにこじれているキーワードは「"別離"の捉え方」だと考えます。

この2人にとっての"別離"という同じ事象・言葉を使っていても全くもって感覚が違うから雨月は秋彦を切り捨てられないし、秋彦は雨月を諦めきれない。そんでもって絆し絆されのぐずぐずの泥沼です。

 

秋彦にとっての"別離"は雨月がそばにいることで常に感じる音楽に対する劣等感のせいで、音楽への情熱が薄れてしまった。けれども、雨月のことは好き(広義)だから側にいたい。

そんななか、自分の中に新しい音楽をやりたいという気持ちがでてきたから雨月とは別れないと向き合えない。

そんな秋彦にとっての雨月との"別離"とは"中間セーブポイント"としての感覚だと読み取りました。

雨月との関係を終わりにすることは雨月からもらった感情・思い出をすべてひっくるめて中間セーブして、次のステージに進むけどこれまでに培ってきたものは経験値として次につなげていきたいという気持ちなのかなと。

この秋彦のなかで"別離"="中間セーブポイント"が確立されるまでになんというか、こうすったもんだがあるんですけどね。(もはや、つべこべ言わず原作読んで)

 

一方、雨月にとって秋彦との"別離"は秋彦と恋人として一緒に過ごした時間のなかで築き上げてきたものたちが"もう要らないもの"として"もう終わってしまったこと"として消えてしまう感覚なのだろうなと。

だからこその秋彦が居候していた雨月の家を出ていくことに対して、強い拒否感を示し、秋彦に『ヴァイオリンを捨てるのか』という言葉なんだと思います。(おそらくヴァイオリン=雨月、ドラム=新しい好きな人の構図)

 

自分と同じ時間を共有したヴァイオリンを捨てて、ドラムという別の道にいってしまうことは秋彦と一緒に見たもの・聞いたもの・感じたものたちをもう精算してしまって、要らないものとして、どこかに押しやって次に行きたいことだと。

そう言われているに等しかったんだとわたしは思います。

けれども、音楽も秋彦と違うベクトルで自分にとって代え難さをもった好きなもので捨てられない。

だから関係を終わりにしたいと口火を切ったのは雨月だけど、秋彦を振り切れないのも<"別離"=リセット=何もなかったことになる>の思考のせいなんだろうなって。

 

そんでもって、秋彦も雨月も言葉が!表現が!圧倒的に!!足りない!!!

はぁーーー!知ってる!!人間って心底不器用って知ってる!!!!

 人間はエスパーじゃないのだから考えていることや想っていることは口に出して伝えないといけないなと痛感します。

 

いや、もう本当に『ギヴン』4巻で語られる雨月と秋彦のマグカップいらない事件は読んで欲しいです。「とても大切なのに、大切にしたいのに、うまく大事にできない」(めちゃ複雑感情)が詰まっています。要はしんどい。

 

このことはこの2人の物語の少し後に登場する上ノ山立夏の姉が弟の立夏が同性の真冬と付き合っていることで弟が世間から奇異の目線で見られることを心配するあまり思わず「おかしい」と言ってしまったことに対して「傷つけるんじゃなくて、わかってあげたかった」という想いを吐露することもそうだと思います。

 

そういう"別離"の捉え方の違いと言葉のやりとりのなさがずるずると秋彦と雨月の不毛な関係性を作り上げてしまったんだと思います。

 

いや、本当に言葉って難しいです!

嫉妬に憎しみ、いろんな想いを混ぜ込んだごちゃごちゃな歪な感情もいろんな愛情も一度に表現することができる"好き"って言葉は万能だけれども、如何せん短すぎますよね。

 

つくづく思いますが関係性が変わっていくことって難しいですね。

年齢を少しずつ重ねるにつれて10代や20代前半を一緒に過ごした人たちがそれぞれの道に分かれていくにつれて否応なしに関係性も変化していくことを、ここ最近よく感じます。

 

ま、でもそもそも雨月の姿をこういう風に感じるのは自分が"別離"をそう捉えているからこそなんですよね。

 

わたしは"別離"が嫌いです。関係性って目に見えないので、本当にあったのかをたしかめることができなくて、自分の"そこにある"という感覚に頼るしかなくて、ここにいる自分はその関係性が折り重なってできているのに、その人がいなくなると、そもそも在りもしなかったんじゃないかという感覚がやってきて、すごく怖くなります。

その関係性が今の自分を構築しているのに、"別離"はまるでなかったみたいにしてしまう。

 

独りは寂しいから"家族"という簡単にほどけない関係性のなかに生きていたい。

今の"家族"はいつか終わりがくるから次の"家族"が欲しい。

けれども、その前段階にあたる"恋人"なんていうちょっとしたことで"別離"が訪れる関係性なんて。ましてや、今のままでも固められている関係性をそんな脆い関係性に上塗りすることに意味を見出せない。 

 

矛盾していることはわかっているけれど、それ以上に大切な人との"別離"が嫌なんです。どんな形の"別離"であっても。

 

始まりがなければ、終わりもこない。

それだと前にも進めないから、いけないことだとわかっていても、そう考えれば楽になる自分もいてぐちゃぐちゃです。

 

だからこそ、雨月が秋彦が家に帰ってこず、雨月のもとから次第に離れていっている感じていることを真冬に話したときの

「でもやっぱりやだな、この部屋に詰まっているものが全部消えちゃうのは」

「何かひとつ残らないかな」

「二度と元に戻らなくても 遠くにいても 音楽だけは残ればいいのに」

 に対して漫画を読んだときも、映画を観たときも感情移入をすごくしてしまいました。

 

ここまで勢いで書いてきました。

 

自分、重すぎでは?笑

 

友人との感想の違いはこういう自分がどういう定義をしているかや、これまでの人生経験に左右されるんだなと改めてはっきりわかりました。

「人間も人生も難しいね〜」とわたしは酸辣湯麺をすすりながら、こんなことをバイト先の友人と語り合いました。

 

ちゃんちゃん。

 

ちなみに映画は主題歌と劇中歌がドンピシャで鳥肌がぶわわわーってなる方面でおすすめです。ですが、登場人物の感情の機微や背景は漫画の描写が詳細で繊細で好きです。

 

さて最後にその主題歌と劇中歌を、わたしに刺さったフレーズを添えて終わります。

 

それでは!

 


センチミリメンタル 『僕らだけの主題歌』 Music Video

もう戻れないね

 

僕は行くよ

ねぇ、見ててよ

あなたより大事なもの 探してくるよ

何よりも大切なあなたのために

 


「映画 ギヴン 」大ヒット上映中PVー「夜が明ける」ー

これまでじゃなく これからだよって

分かってる

眠れなくても 夜は明ける

繋いだ手も やがて離れる

途方にくれて 泣き喚いても

やがて泣き止む

君がいなくても 生きてゆけるけど

愛されなくても 君に会いたい

26才

こんにちは。こじまです。

 

この季節は夕立が多くて、雷が死ぬほど嫌いなわたしはいつもキレそうです。

ちなみに先日、部屋の電気が雷のせいでフッと消えて家電が止まり、一瞬とはいえ発狂しました。本当にやめてほしい。(いつか絶対『8月の雷音』ってタイトルで雷への恨み辛み書いてやるからな!!)

 

さてさて、26歳になりました。わーい。

ですが、こじまは22日の23時57分生まれなので厳密にはまだ25歳です。笑

 

8月22日は獅子座だったり乙女座でもあるうえに24時近いとなると、星占いも獅子座と乙女座の両方読んで都合の良い解釈してます。

酔った勢いで昔、見てもらった四柱推命的にいえば23時以降は星の読み方が変わるらしく、そんでもってこじまの生まれたタイミングはマイナスの星とマイナスの星が並んでむしろプラスらしいです。(おぼろげ)

 

それにしても、占いっておもしろいですよね。対話術的な要素もあれば、シックスセンス的な要素もあって。わたしは好きです。

人生の全部をおっかぶせるのは身動きが取れなくなってしまいますが、「今日はそういう日なんだな」って諦めも肯定もできるいい手段の一つだと思います。

 

四半世紀なんて長いのか短いのかわからない時間を生きてきたなかで思うのは「こっち!」という直感でだいぶ生きてきたことと、そんなシックスセンス頼りの生き方を周りに肯定してもらってきたことです。

 

2020年上半期の最大イベントの就職活動なんて3社しか受けてないです。どんな博打だよって感じですね。

平均はこの10倍くらい受けてるみたいなのですが、最初はビビり倒していたのになんか突然「イケる!」と思ったので……笑

大学院受験にしても同じような感じです。就活合わないなぁっていうタイミングで、院進の選択肢がストンとテトリスのピースがはまった感覚がしたので「大学院行きまーす」と決めました。それで受験までビビっていたのですが、ペーパー試験当日「イケる!」みたいな。

 

こんな感じでわけわからんことをこれまで繰り返して生きてきました。笑

しかしながら、こういう直感頼りの生き方するこじまを肯定してくる周囲の人がいてこそだなと改めて実感します。

そのなかでも1番わたしを“わたし”として肯定してくれているのは両親ですね。

こじま親もわたしの人生に関して口出したくなるときも多々あったけど「そら、世間的に良い大学行ったり、良い会社入ったりしたら親の通信簿は上がるけど、あんたの人生やしな」と堂々と子どもに対して言うのはなかなかファンキーです。

 

「そもそも“世間的に良い”の定義なに?」みたいな話になるのが日常茶飯事だったり、学部時代に毎日大学に行ってたら「毎日行って偉いなぁ。サボってなんぼやろ」と言われたり、ゼミ合宿と同じようなルートで家族旅行したりというこじま家自体がクレイジーなことに24、5歳にしてようやく知りました。やっぱり自分の“普通”とは往々にして見えにくいものですね。

 

それが良い悪いは置いといて、こういう環境じゃなかったらこじまは今みたいな人間じゃなかっただろうなと思います。

院試のペーパー試験でこういうこと書いたとこじま親に話したら「いつも家で喧喧諤諤喋ってることやん。ウケる」と返されたのはその最たるものです。笑

 

そして、こんなパッパラパーなわたしを肯定してくれて、期待してくれるみなみなさま、ありがとうございます。

 

今年はあまり人に会うことや外をぷらつくことがないので、自分は他者との関係のなかでの反射だとこちらもつくづく感じます。

 

あと今のこじまを構成するのは微妙な世界線の揺らぎですかね。(ここは世界線変動率1.048596%だったりして。エル・プサイ・コングルゥ。笑)

 

さて、これからも『"やりたいこと"を"求められること"に、"求められること"を"やりたいこと"に』『自分の人生の主役は"自分"であり、自分は誰かの人生の"裏方"』を心に刻み、『人生とは"アイドル"』モットーに26歳も過ごしていこうと思います。

 

それでは!

 

私の頭の中の迷走

こんにちは。こじまです。

 

ただいま。東京です。

けれども雨ばっかりで研究室に放り込んだ荷物をいくつか回収できていないのが悲しいです。笑

最近はもっぱら自分の部屋でごそごそしたり、バイトしたりという感じの日々を送っています。

そんななかでJSTORなんかの論文サイトにめちゃくちゃお世話になっているのですが、毎度毎度「世の中は便利になったな〜」としみじみ思います。

実家にいるときはリモートワークするこじま父と文字通り四六時中、家にいたりしたときもHang Outなんかに対して「おお〜文明の利器〜」とはしゃいでました。というか、こじま父と元からいろんな話をよく話すけど、自粛期間@実家ではなんかE・H・カーの『歴史とは』の話をしたり、ヒッチコックの話したことなどを、しゃべり相手がいなくなってから「あの時間、ほんま謎やな…」と改めて感じます。(まぁ、こじま家自体がズレているのは今に始まったことではない)

 

それはさておき、本当に「やっぱ島根にパソコンなんてあるわけないじゃん!」*1の時代から四半世紀もしないうちにパソコンはおろかスマホが時代を席巻しているなと。

このブログだってそうなのですが、<デジタル>がない日なんてもはや存在していない気がします。

そしてかく言う自分も扱う史料の大半をデジタルでみている状況なのですが、<デジタル>って[ここに在るようで無い][ここに無いようで在る]の微妙なラインにある気がします。

 

アナログな文献や新聞記事を<デジタル>に置き換えたとして、オリジナルの<アナログ>が消失してしまった場合に<デジタル>はオリジナルになれるのか。

そもそもオリジナルが<デジタル>しかない場合、目の前にオリジナルが存在している確証がそれを目にしている今現時点の感覚でしか<デジタル>があることを観測できないのではないのか。そんなことを考えたりしています。(暇では無い)

 

文学研究の場合、読み手側に原典が手元にないと説明しづらいことが多いとおもうのですが、例えばゲームのシナリオとかを扱う場合ってどうすればいいんですかね。

コンシューマー版であってもハード機器が手に入らなければ<物語>を読むことが不可能になりますし、ましてやソーシャルゲームなんて自分の手元には厳密にいえば[無いもの]ですし。

 

そもそもの話なのですが、作品からその時代の様相や思想、社会情勢を考える研究としての題材にそうした作品を扱うことも妥当だとわたしは思うのですが、どうなんですかね。

 

気分転換にゲーム作品やアニメ作品といったいわゆるを扱った研究はないかな〜といろいろ論文を探してみるのですが、そもそもあんまり論文がヒットしないのでしょんぼりしています。(知っている限りでは斎藤環先生しか知らないので、どなたか知っている人がいれば教えてください)

 

それこそ『週刊少年ジャンプ』の作品を発刊からずーっと追いかけるのも、その時代の"かっこいい"を捉えるうえでありかなって思っているのですが、ダメですかね。笑

ゲームシナリオとかは"高尚"じゃないから文学かどうかってとこですよね。

 

個人的には前回書いたことのある『あんさんぶるスターズ!!』とか今、ちまちまハマっている『魔法使いの約束』といったソーシャルゲームって、とても<Social>なものな気がして研究できたらおもしろいな〜って思うのです。あとはkey作品なんかもアリなんじゃないのか…

 

けれども、結局のところ自分が興味の根底にあるのは<選ばれるもの>と<選ばれないもの>、<選ぶ>と<選ばない>という視点なのだなと、この文章を書きながら思いました。

 

そして、改めてここに文章をまとめるのってすごい気分転換になるなと認識しました。ここ最近ずっとなんかこう掠っているけど、自分のドンピシャの史料や「これだーーー!」っていう文献が見つからなくて手を拱いているので、思考が余計な方向にいきがちなもので。笑

 

実家と違って喧々諤々と毎日のようにしゃべる相手がいるわけではないので、発散しきれないよー!

 

うわー!作業に戻りますー!

 

それでは!

 

 

 

*1:島根にパソコンなんてあるわけないじゃん!」は『デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム!』をみてください。ちなみに8月1日に観るとより一層、作品を楽しめます。あと、本当に第一作目の20分しかない映画『デジモンアドベンチャー』は全世界にみて欲しいです。

外野のA

こんにちは。こじまです。

 

毎日くもりか雨ばっかりでやる気がねこそぎ持ってかれてしまいます。

楽しいことを考えていきたいと思います!ただ今回の話もどっちかというと楽しくない話題なのに言うかって感じですが!笑

 

外野の人間が発言をしたり、批判したりすると「いやいや、お前は外野の人間じゃん」と一蹴されることってないですか。まぁ、当事者が1番最前線にいて、物事の是か否が人生の行末に大きく関わっているのは明らかなんで、それでいいのかなと思うことがたびたびあります。(たしかに外野が口とか手を出してくると鬱陶しいこともよくわかる)

 

なんか自分はいろんなことに中途半端に当事者だなってよく感じます。

この前に書いた芸術文化についても、ジェンダーのこととか。自分が渦中にいることが疲れることもあって、むしろ自分が絶対に当事者だと言い切れるモノってたぶん、あまりないです。

そんななかSNSをはじめとしたデジタルツールが発展して、外野の人間がとやかく言いやすくなった世の中でどういうスタンスだったり、どういう想いで生きていけばいいかなとたびたび思います。

 問題や事件の当事者はよく描かれるけど、その問題の外野にいる人間の描写ってわたしの知る限り見たことない気がします。

そして、外野だけど考えることはたくさんあるっていう厄介な性格の人間が自分です。笑

 

その最たる事例が「自分の出身地は"橋のない川"がある街だということ」です。

こじまの出身地は確か全国でみてもそうした地域が多い部類に入ります。

 

自分の街はそういう街だって教えられて、でも自分は問題の当事者ではないからどういう立ち位置にいればいいのかなって。

けれども自分はそこに住んでいるあっち側の人間でもないし、自分のルーツに関係ないし、そのことについて自分を他人から貶められたこともない。だからこそなのか「うーむ」と思ってばかりです。

  

最近はあんまり気にしてない、というかよくそのことを知らない人も街に多く入ってきているので正直うやむやになってる感はあります。

きっと大人になってからこの街に来た場合だと、きっとおしゃんなイメージばかりでてくる気がします。

 

今でもそのことを勉強する機会があるのかは知らないけれど、「街のあっち側の人間とこっち側の人間は違う人間であるのが当然だったこと」をわたしは少なくとも知っている。

自分が主に生まれ育った街はそういう街だと知っているし、そうした地域がまた別の問題の根っこになっていることも知っている。

けれども、わたしは完全なるあっち側の人間ではないから「それはいけないこと!」と声高々に言うことがなんだか偽善っぽくてどうしたらいいのだろうと思ってばかりいます。

当事者でも完全なる外野の人間でもない<とある住民A>でしかないので、何が自分にいえるんだろうとよく悶々しています。

 

悶々しては「考えることが大事なのかな」というところにいつも落ち着いています。

誰か何かいい考えがあれば教えてください。笑

 

わたしは"あっち側"と"こっち側"の話は誰でも知っていることだとつい最近まで思っていました。意外と街をでてみるとそうでもないことを知って驚きでした。

 

覚えているのもしんどいけど、忘れることもまたしんどいよな〜って感じです。

さて、鬱々していても仕方ないので気分転換に録画した『魔改造の夜』を観ようかと思います。笑

 

www6.nhk.or.jp

 

それでは!

ライフプラン A to Z

こんにちは。こじまです。

 

あっという間に7月です。2020年も半分過ぎてしまいました。

本当なら来月はオリンピックを見に行っているはずだったのですが、どうなるんですかね…(返金も何もいってこないから逆に怖い)

この半年近くの引きこもり生活を通じて、こじまはいかに自分が外に行かないと死ぬタイプなのかがよくわかりました。

最近はデジタルツールの発展のおかげで家にいながら舞台やコンサート、美術作品も鑑賞できるようになりましたが、それは自分にとっては現場*1の代替にはならないと思い知りました。

 

さてさて、わたしの大好きな現場たちはこのウイルス騒動の煽りを受けて、否応なしに休業や公演中止に追い込まれました。この文章を読む人がだいたいの人がおおよそ状況は共有している気がするので詳細は割愛します。

 

www.huffingtonpost.jp

 

『「不要不急」なものは後回し』が当たり前になっていくなかで、芸術は「不要不急」としてみなされているといっても過言ではないと思います。

実際に芸術を享受する側にいるわたしの中では芸術に費やすお金の名目は遊興費ですし。けれども、その遊興費が明日のお米を買うお金になる人もたくさんいるわけで。

 

「芸術文化を後世に残すためにも」

「芸術分野で食っている人間が生活できるためにも」

といった文脈で主に芸術分野の補償を訴えているかなという所感です。

ですが、まぁ話は進んでいないわけで。

 

あくまでもこれはこじまの考えなのですが、政策を決める側の人間と芸術に近い側の人間では"文化"というものが全くことなるものとして捉えられている気がします。だからこそ、永遠に議論が並行線なのかなと。

 

例えてみるならこんな感じです。

 

政策側にとっての"芸術文化"⇒チェスの駒

芸術文化に近い側にとっての"芸術文化"⇒チェスというゲームの概念そのもの

 

もうこれぐらいの認識の隔たりがあるんじゃないかと思います。

政策側にとってチェスというゲームは経済や外交というもので"芸術文化"はそのゲームのなかの駒の一つのナイトみたいな感覚なので、たとえ駒を落としてもゲームは終わっていないしほかの駒で戦えばいい。みたいな。

けれども"芸術文化"に近い側にとってはチェスというゲームの概念が崩壊しようとしているのに「いやいや何言ってんの!?駒が生きるか死ぬみたいな話じゃないよ!?」みたいな。

 

うまく文章で説明できているかはわかりませんが、こじまはこんな感じに一連の流れで感じるズレを捉えています。

 

わたし個人としては"芸術文化"は月並みな表現ですが「なくてはならないもの」だと思います。それは"芸術文化"は人の数だけの"真実"を考えることができるからです。

 

芸術作品として存在しているもの、つまりは一つの作品は唯一無二の"事実"です。そこにどんな価値を見出すか、どんな想いを感じるかは人によって異なりますが、そこにあるのは確かに"真実"です。

人の数だけの"真実"があり、それぞれの"真実"について考えることはどういうことなのかができる空間というか空気感というものは、学校のテストみたいな正解・不正解のある世界ではできないことかなって思います。別に正解・不正解を決めることが間違っていることではなく、それぞれの"真実"を考えないことは、解答者の属性や背景は変化しているのにその正解は永遠にアップデートされないままなのは最大公約数の幸福を追求するうえでもズレが生じてくるという意味です。

(というか、歴史という学術領域もこの"事実"と"真実"の関係に似ていると思う今日この頃です。笑)

 

自分のなかの正解のアップデートの実例としては先日、ちょっと前に流行した(?)Official髭男ismの『Pretender』という曲の解釈がわたしとこじま母では全く違っていたことですかね。


Official髭男dism - Pretender[Official Video]

わたしは「振られる」曲だと思っていて、こじま母は「振る」曲というふうに解釈の不一致が。もうこれはわたしにとっては目から鱗でした。笑

 

あとは<音楽だけ聞いていたとき>、<はじめてMVを観たとき>、<もう一度MVを観たとき>、<解釈の不一致を知ったとき>はそれぞれ抱く感情が違うんです。MVの登場人物たちの感情や「こいつが本命かな」の描写への印象がもう毎回変わるんですよ。あー、もうわけわからん。(楽しい)

 

いや、もうこれは「なるほど!1+1=2なのか!」を知る感動とは全く違うんですよ!

「うわ!!ここからだと晴れてるけど、外では実は雨降ってた!なんなん、この天気!?笑」みたいな感覚の感動なんですよ!(これははたして文字で伝わるんか…)

 

音楽という"事実"を作った人間、MVという"事実"を撮影した人間に伝えたい"真実"(≒正解)がありますが、必ずしも受け手がたどり着くかもわかりません。しかもその"真実"を確かめたから何になるというのだ。

 

ご飯がいきなりおいしくなるわけでもないし、銀行の預金残高が倍に増えるわけでもない。

けれども自分が正解だと思っていた"真実"以外にも"真実"があることがわかると、キャパオーバーになりそうな精神に5cmくらい余裕ができるんですよ。

 

「いや、別にこの方法じゃなくても生きていけるわ」みたいな。

 

もっと自分にとっての息のしやすい"ここじゃないどこか"や"モノの見方"があること教えてくれるのが、こじまにとっての"芸術文化"なんです。

自分の中でのライフプランはAからZまであっていいんですよ!もちろんそれ以上でも!笑

 

そもそも"芸術文化"って点じゃないんですよ。音楽も美術も、デジタルもアナログも、古いも新しいも、ハイもローも全部全部繋がっているんです。

だから「芸術なんてなくても死なない」みたいに軽んじて欲しくないとこじまは思います。今自分がいる社会・空間・場所もたくさんの人の"ここじゃないどこか"を考えて、それが積み重なった結果、生まれたものなので大切にしてもらいたいです。

 

なんだか後半は謎なテンションで駆け抜けてきましたが、良しとします。笑

 

それでは!

 

 

(あ、前述の全部繋がっているという感覚は『知りすぎていた男』を観て『交渉人:真下正義』が観たくなったり、ゴッホみて日本画とか浮世絵がみたくなるみたいな感じです)

 

 

 

*1:コンサートや舞台などのイベントが実際に行われる会場のこと。界隈特有の言い方だと最近知りました。笑

これも私の生きる道

こんにちは。こじまです。

 

小難しいことばかり考えていても疲れるのでラフにいこうと思います。笑

以前にも書きましたが『ハイキュー!!』がめためた好きです。

17-wwannanext.hatenadiary.com

というか、前回『ハイキュー!!』について書いてからもうすぐ1年くらいになるんですね。体感的には半年くらいかなと思っていました。

さて今は作業しながら大画面でアニメをつけたり、「読みたい!」と思ったらすぐ漫画が読めるのでぬくぬくハイキューライフをしています。

そんな日々を送っていると時々「自分の思考回路は『ハイキュー!!』なのでは?」と思うことがあります。

 

今回は就活をするなかで感じた自分と「ハイキュー!!」の思考回路の近さについて書いていこうと思います。

 

就活をする過程で自己PRを考える機会が何度かあるなかで、こじまは「自分は"アイドル"だ」を押し出していました。<他人が自分に求めること>と<自分がやりたいこと>のバランスが取れて、いろんなことに広く関心を持つ柔軟性が自分の強みだと売り出してきました。

(↓"アイドル"の定義や「自分は"アイドル"」の詳細についてはこちらを参照ください) 

というか参照記事のなかで「いつか書く」って書いて2年も放置している内容があるやん…

17-wwannanext.hatenadiary.com

 

この自分の強みとしての柔軟性とは、烏野高校の春高バレー準々決勝の対戦相手である鴎台高校の星海光来と昼神幸郎の過去でのやりとりの中にあったものに近いなと。

 

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©️集英社古舘春一

左のツンツン:星海光来

右のウェーブマッシュ(?):昼神幸郎 

 

昼神幸郎は親兄弟がバレーボールをしている環境で育ちバレーボール部に入ること、バレーが上手くなることが"当たり前"のなかで昼神は迷うことなくバレーに打ち込みました。

中学生時代の昼神は体格もセンスもあってバレーは楽しくやれていたけれど、まだまだやることややるべきことはあると考えるタイプでした。

勝つためにはもっと自分が強くなればいいという想いからスランプで結果がでないチームメイトに対しても「"結果"がでないのは努力が足りないから。どこかで手を抜いたから。自分で諦めたから」と冷めていました。(ごめん。わたしも時々そう思ってる)

 

そうして生活していくなかで試合中うまくレシーブできなかったり、スパイクが決められないと自分の努力が足りないと自身を責めていきます。

ある日、ついにキャパオーバーになってしまい自分の手をコンクリートの壁に自分でザリザリザリと擦り付けて傷つけてしまいます。

 

そこで昼神は実はそんなにバレーが好きじゃないのかもしれないと気づいてしまいます。

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©️集英社古舘春一

 

それに対して星海はこう言ってのけます。

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©️集英社古舘春一

「じゃあ やめればいいんじゃね?」

「別に死なねぇ。やめたからってお前が身につけた強靭な筋肉は簡単にはなくならない」

「お前は今バレーは腹いっぱいなのかもな。あれだけガツガツやってりゃな」

 

別にやめたって、失敗したって死ぬわけじゃない。

それに自分が頑張ってきたことは簡単にはなくならない。

 

自分が好きなことだったからここまで努力を積み重ねられたことも、たくさんのものを手に入れたことも嘘でも幻ではない。

けれども"今"はそれもそんなに好きじゃないことだって、事実である。

 

いつでも始めていい。

いつでもやめていい。

いつでも戻ってきていい。

戻ってきても同じでなくていい。

前と違ってもいい。

 

自分はそう簡単には変わらないのだから、自分にとって大切で誰にも譲れないものであっても別に固執しなくて良い。

 

それに意外と「いつでもやめていいや〜」って思えると案外やめないし、なぜだか広く周りが見えるものです。昼神もそういっている。笑

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©️集英社古舘春一

 

自分の理想を手放してみるという選択肢が考えられることができる。

相手にわたしが思う"良い"を訴えかけることができる。

"結果"はわたし1人で作るものじゃないことを知っている。

そんなわたしは"アイドル"と面接でアピールしました。とんだ誇大広告である。笑

  

ちなみにわたしの中で就職をするということは、研究することを学術の場にいることを諦めることと同義ではないです。

 

<学術の場に身を置いておきたい><自分の食い扶持を自分の思い描く形で稼ぎたい>を両立することは如何にして可能になるのかを考えた結果が就活でした。

 

「どっちも選びたい」というこの選択はたぶん就職か進学かの二択で考えた結果よりも悩まなくていいことを悩むだろうし、今の自分が思っているよりも5万倍くらい大変だろうなと察しはついています。

けれども自分には「ここじゃないどこかがある」という実感を持てることはわたしを自由にしてくれると考えています。

これもまた半年くらい経ったらまた考えは変わっているかもしれないですが。

 

それはそれでいいのだー!

 

さて、ここまででお気づきだろうか… 

こじまの就活はブログの内容をよそ行きの文章や発言にブラッシュアップしただけともいえることを!笑

 

マジでぶっ飛んだことを書いたり言ったりしているのによく採用してくれたなとつくづく思います。ありがとう、御社。

  

 それでは!

 

ジェンダー企画に疲れています。

こんにちは。こじまです。

 

やるべきことはいっぱいありますが、ちょっと一区切りがつけそうです。

というか6月がもう半ばという事実が怖いです。2020年半分終わっちゃうじゃないですか!笑

 

さてさて、今日はちょっと前に話題(?)になっていた「美術館女子」について思うところを書こうと思います。

 書きたいことはいっぱいあるのに体が一つしかないものでもどかしいです。

(体って分裂しないですかね。笑)

 

↓「美術館女子」企画サイト

www.yomiuri.co.jp

 

わたしはネットでこの企画記事を読んでまず思ったのが「え、見にくい」でした。笑

美術に関することをPRしていくうえでこの見難さは致命的なのではと思いました。

 

そんな表面的なことはさておきです。

 SNSを中心に笑えるくらいに非難轟々で、なかなか擁護している声が見当たりませんでした。

 

この企画が目的としていることもわからなくもないですが、わたしとしては腑に落ちないなと。

納得いかないポイントとしては"美術館女子"というカテゴライズ"映え"の扱い方です。

 

"美術館女子"のカテゴライズについてですがまず「は?」です。

○○女子とか△△男子とかよく見かけますが、この呼称はどちらかというと今までどちらかの性別が独占(寡占?)的で入り込めなかったジャンルに足を突っ込みやすくするために生まれ出した呼称だと思っていたので、目的意図が読み取れません。

 

展示作品の傾向によって、訪れる男女比は異なると思いますが、美術館に足を運ぶ女性が圧倒的に少ないなんてことはないと思っています。

だからこそ、なぜあえてこの呼称を持ち出そうと思ったのかがよくわかりませんでした。

少しずつ新しい価値観も参入するようになってきたこのご時世にガソリンをぶちまけにくるのは、なかなかチャレンジングな行為だなと感じました。笑

 

カテゴライズは個を集団に組み込むことができるけれども、個と集団の境界線をはっきりされることにもなるので条件を満たさないものは弾き出すので発展や可能性などを狭めてしまう気がします。

そのへんのカテゴライズの弊害については『レミーのおいしいレストラン』と『ズートピア』をぜひとも観てほしいところです。

youtu.be

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この2作品はカテゴライズということを考えるうえで、めちゃめちゃ参考になるとこじまは思っています!

(あと話は逸れるのですが、ディズニー作品は"上書き"が本当に上手いなと。いい意味でも悪い意味でも)

 

次に"映え"の扱い方についてです。

 

確かに現状として「美術館行こうよー!」と誘っても絵画をはじめとした美術作品に興味のない子には断られることはままある事です。なので"映え"を前面に押し出すことで、これまで訪れなかった来館者が増えることもよくわかります。

 

それが1番よくわかるのが"映え"スポットとしても認識され、来場者が途切れない金沢21世紀美術館ではないでしょうか。

あそこは"映え"感性に比重を置いて「美術館にいる私」が大切な人よくいう芸術感性が刺激されることに比重を置いて「芸術作品」が大切な人が入り乱れている空間だと思いました。(よくいう芸術感性の定義についてはここでは割愛します。ここでは美術館によく行く人ってイメージくらいに捉えてもらえたら)

 

なんだか「美術館女子」の企画は「"高尚な"芸術は"映え"にもなるという価値観」と「"高尚な"美術の世界に触れ感性を養おうの価値観」のすり合わせがよくわからないまま進んで、一方的に"映え"の価値観を貶めただけな気がします。

 

"映え"の感性だって、美しいと感じる感性の一つだとこじまは思います。

"映え"は時々他人に迷惑をかけるところがクローズアップされがちですが、どの価値観だって行き過ぎは迷惑でしかないので"映え"だけを悪者にするのはいかがなものかと。

(本音をいうと、あまり"映え"の感性は得意ではないですが…笑)

 

もう美術館が高尚なものとか、"映え"スポットだと思っている人は一度でいいから『ブルーピリオド』を読んでほしい。

afternoon.kodansha.co.jp

 

なんなら2巻の美術館で「買付けごっこ」をするシーンだけでもいいから読んでくれ。

以下その抜粋です。

 ©️講談社・山口つばさ『ブルーピリオド』2巻・p74〜77

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というか「芸術は生活必需品じゃない」と思っている人にも『ブルーピリオド』は読んでほしいです。でも実際にそう思っている人はなかなか漫画を読んでもらえないのが口惜しいですね。

 

あとは『ブルーピリオド』については個人的におもしろかった記事もここで共有しておこうと思います。

 

nlab.itmedia.co.jp

gendai.ismedia.jp

 

なんだかだんだん『ブルーピリオド』の宣伝と化してきました。笑

 

これは余談ですがこじまは『ブルーピリオド』にハマりすぎて電子版と紙媒体の両方で既刊のすべてを持っています。(デジタルで読むのとアナログで読むと感触が違うんですよ!と言っておく)

 

それでは!