こじまのかべ打ち

こじまが話したいことを書き書きしてます。

文字に願いを

こんにちは。こじまです。

 

ほんとにもう10月下旬ですか?バグじゃないですか?

「やることいっぱいでヤバい!」みたいなことを以前書きましたが、よくよく考えれば2018年の4回生のほうがヤバかったです。

 

その頃のわたしの方が頭がおかしい。

よくあんな大道芸みたいなリズムで生きていたなって思います。

ここに内容を書き出そうと思ったんですけど、自分でも引くくらいの量だったのでやめました!ハハッ。

 

まぁ、今だから笑えるんですけどね!今だから!!

おかげさまで、ここまで来れました!ありがとう!膨大な仕事たち!!

わたしにとっては"普通"でも、他人にとっては投げ出したくなることが往々にしてあることを身に染みて理解しました!

それにしても、よく責任感とボランタリー精神だけであんなことやってたな!

(ようは「うわっ…もしかしてわたしのキャパ、広すぎ…?」です!!!笑)

 

そう考えると自分がやる気だして頑張ればいいだけなんて、なんと素晴らしい状況でしょうか。

論文と資格勉強って作業中は他人を慮ったりしなくていいし、あちこちに水面下で根回ししなくていいんですよ。すごいですね!!

 

まぁ、今はイマ。過去はカコです。

 

さて、本題です。

以前、<研究することは絵を描くことに似ている>と書きました。

17-wwannanext.hatenadiary.com

今、本格的に論文作業をしていると改めて絵を描くことというか、<研究は作品作り>だなって思う日々です。

これもなんていうか、書きながら「え、この作業いる?」となり、結果的にいらないことに気づき「うぁ〜〜!また3時間くらいドブに捨てたわ〜〜〜」みたいなことばっかしながら思い至りました。

 

作品作りにおいてテーマとモチーフってしっかり固めていかなきゃだと思うのですが、この2つって似て非なるものな気がします。

 

端的にいうなら

<テーマ=言いたいこと>

<モチーフ=自分のいいたいことを証明する題材>

ですかね。

 

でも、この2つって作業していると本当に混同しやすくないですか。

ここがごちゃつくと「あれ?これなんのための論文だっけ?」みたいな状況に陥る原因の一つだなって。そこが自分の中でぼやけるとやっぱり筆は止まりますね。(ただでさえ、止まりがちなのにね!)

 

「そのテーマを表すのにモチーフは適切?」

「そのモチーフを使って何を言いたいの?」

「そのモチーフのどこを切り取る?」

「そのモチーフの何をどう表現するの?」

「平面で描く?立体で作る?」

「その形で他人に伝わる?」

 

みたいなことを描きながら(書きながら)

考えて、選んで、捨てて、考えて、選んで、捨てて。

研究はそうやって作品を仕上げていく感覚だなってひしひしと感じます。

しんどいけど楽しいですね。

 

そうしていろいろ思考をめぐらせていると、ふとこれまでの自分の研究だとどうだったのか考えてみました。

1回生から修士2年に至るまでの自分ってモチーフ(対象)はぴょんぴょこ移動しているけど意外にテーマ(言いたいこと)は一貫しているんじゃないかなって気がしてきました。

 

・こじまの歴代のモチーフたち(ざっくり)

1回生:同性婚事実婚

2回生(共同研究):劇場と文化政策

3回生:留学生

4回生(卒論):文化行政関連の補助金

M1~2:移民

 

2回生の研究のベースになったものを4回生でブラッシュアップして卒論にしたので、ギリギリここだけ繋がっているかもです。いや、それでもこのブレブレ具合は一体……。笑

 

でも、テーマで考えると

1回生:「家族」って何か

2回生・4回生:「文化」って何か

3回生:「留学生」って何か

M1~2:「○○人」って何か

 

なんですよね……怖っ……

これを無意識的にやってる自分が怖っ…

(なんなら今の修士論文の仮タイトルってまんまこれなんですよね……)

 

もうちょっと深堀りしてみるとテーマのさらに上位に位置するコンセプト、ようは自分の根っこにあるのは

<自分の文章を読んだどんな人にも「考えてほしい」>かなって。

 

書かれている文章に興味がない人が読んだときに「読んでみたけど、自分には関係ない」じゃないものを抱いてほしくて。それは自分の文章の"敗北"な気がします。

 

別にわたしの意見を肯定してくれなくていいし、わたしの論文で世界が変わるとも思っていないけれど<考える人>が増えれば少しずつでも何かが起きるかもしれないし、起きてほしいとわたしは思っています。

 

うむ。これは「同性婚事実婚」論文で書いたここがやっぱり、コンセプトの原点ですかね。

 

先行研究においても「家族」というものは画一的に定義できるものではなく、法学的「家族」の範囲をより広義に拡張すべきと主張するものは多く存在している。(中略)ただし、いずれも権利平等の側面から述べられたものが多い。権利平等を掲げることは正論であるが、実態を認識しないままではその政策は対処療法にすぎず、同性愛者や事実婚を選択したものへの偏見はなくならない。また、同性婚事実婚を認めること自体がもたらす社会全体へ還元する利益が示されていない。そのため日本では事態が堂々巡りを繰り返しているのではないだろうか。

 

自分が「関係ない」って思っていることでも、巡り巡って繋がっているんだよ!

=無関心だといって切り捨ててほしくない

=なんでもいいから考えて!考えること自体に<価値>も<意味>もあるんだよ! 

 

これがずっと言いたくて言いたくて仕方ないんだと思います。もはや言いたいことよりもわたしの願望かもです。

 

つくづく、ほんの10ページ程度のこの稚拙な論文がなかったら、こんなこともきっと書いてないし、大学院にもいませんね。笑

 

一応、このブログも誰かが読んだときに「ほーん。そういう考えもあるんか〜」ぐらいは思ってほしくて書いているつもりです。

 

けれども、本当に読んでくれてる人数とか気にしてなくて……やっぱり基本は壁打ちなもんで……

 

更新したときにSNSにアップしているのは「読んでほしい!」よりかは<誰かに読まれる可能性>を自分が忘れたくなくて連携させてます。

 

なので、たまに反応もらえたり、読んでるって言われると「ひょえぇ……ほんまに読んでる人おるわ……」って自分で書いときながらビビってます。笑

 

でも、それはブログの意図としては成功しているのかもですよね。知らんけど。(しかし、真面目にビビってる)

 

さて、この文章を書いているだけでもわたしはまた3時間くらいをドブに捨てています。笑

でも、こうやってどこかに放り出さないと、自分の中での吟味と検証の邪魔になるんですよね……

 

すぐ思考があっちゃこっちゃいくのは、わたしの悪いとこです……

 

じゃあまた、こじまは研究の沼に戻ります。

 

それでは!